Black Comedy
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旅と島田荘司


 ぼくが仕事を辞めたことを知っている友人たちから、よく旅行に誘われる。

 すなわち、「暇だろ?」ということだ。

 正鵠を射た指摘にぐうの音も出ないのだが、時間金持ちになったぶん、経済的には貧乏になっているので、残念ながらほとんど断っている。


 それはさておき、過去の記憶をふりかえってみると、友達といっしょの旅行より、むしろ一人旅のほうが印象鮮やかなものが多い。

 これは――自分でいうのも何だけれど――ぼくがかなりのロマンティストだからだろう。そもそもぼくがどこかに旅したいというのは、本の中で印象的に描かれていた場所に行ってみたいという動機から発することが多い。

 たとえば、大学4年のときは、芦原すなおさんの「青春デンデケデケデケ」を読んで、香川県観音寺を訪ねた。想像していたよりも人気(ひとけ)がない町で、海岸近くの川に架かった橋の上に、おびただしい海鳥が舞っていたことを覚えている。

 いちばん印象深いのは、島田荘司さんの吉敷刑事シリーズに出てくる、京都・天橋立だ。これは大学4年時の初夏と、就職1年目の冬、計2回も訪ねている。島田さんというひとは、小説の舞台を細かく書き込むタイプで、じっさいに天橋立を見て回ったところ、物語の描写がいかに正確であるかを実感した。

 つまるところ、ぼくは未知の名所旧跡を訪ねるより、頭の中で勝手に作り上げていた世界をじっさい訪れて、物語の残滓を重ね合わせながら楽しむ旅を好むタイプなのである。だから、そうした観念的悦楽(?)にドップリ浸れる一人旅のほうが記憶に残りやすいのだろう。


 ところで島田荘司さんといえば、いわずとしれた推理小説界の大御所であり、ぼくはこの方の熱烈なファンである。彼の小説は「奇想」という言葉で評されることが多い。作品をいくつか読んでいると、その「奇想」――ミステリである以上、トリックなるものの発想に深く関わることだが――には、空間を鳥瞰的に捉える視点が大きな意味を持っていることに気づく。この点、いま長々と説明する余裕がないけれど、いわゆる叙述トリックを駆使する90年代以降の作家たちとは、発想の次元がまるで異なっていることは確かだ。さらにいえば、その昏々と尽きることない「奇想」を描いていく筆力、ストーリーテリングの才もまた凄い。

 このように、ぼくはまったく惚れ込んでいるわけなのだが、いっぽうで、失礼ながら他人には勧めづらい作家というイメージも持っている。なぜか。島田さんの小説における発想力が尋常でないように、そもそも彼の人間観や世界観が――良し悪しの問題ではなく――ナナメ上にぶっ飛んでいるように感じられるからだ。それがもっとも端的に表れているのは、登場する女性の描き方だろう。たとえば、吉敷シリーズを通して重要な役回りを担う、主人公の元妻、加納通子である。推理小説にかぎらず、エンターテインメント小説全般を見わたしても、これほど奇妙なヒロイン(?)がかつて存在しただろうか!(念のため付記しておくと、島田作品の登場人物にリアリティがない、といっているわけではない)


 島田さんのエッセイ集『新・異邦人の夢』には、「女性の真実」と題されたエッセイが収録されている。一部を引用してみよう。()内はぼくが補った個所である。



 人間、特に女性は、社会に摩擦なく適応し、人格がすぐれた人となればなるほど、連日嘘をつき続けさせられる。三十一歳になる独身女性同士の親友の、一方が自分をおいて結婚した時、心からおめでとうと言い、自分ならまず結婚しないだろうと思うような男が相手であったら思わず式の祝辞に力がこもり、新居が狭い公団住宅なら「素敵なおうちねー」とうらやましがり、生まれた子供がもし人間離れのした風貌であったら、「きゃー、かわいーっ!」と悲鳴をあげる。

 (中略)女性がこういう正常な状態にある時、ぼくは遺憾ながら彼女がすぐそばにいても、たいてい庭の石灯籠の隣にいるような気分でいる。格段、互いにいてもいなくてもいいような存在同士と思えるのである。

 ところが彼女がやおら無二の親友の悪態をつきはじめ、足首のあたりが太いとか、自分の男を舐められまいとして変な威張り方をするから疲れるわ、などと言いはじめると、彼女の内にみるみる真実が宿りはじめるのを感じるのである。そうして急速に彼女が自分に近しい存在に思われ、あろうことか魅力を感じたりする。女性同士においては、こういうことは当然起こり得ると思うのだが、男でぼくのようなのはかなり変わっていると思う。(自分の小説は)こういう変わった男が書いている小説だということである。



 いま書き写していても噴き出さずにいられない。ご自身が仰っているとおり、このエッセイには、彼の小説の謎を解く鍵が秘められているように思う。愛読者諸兄は先刻ご承知だろう。女性の描き方だけでなく、島田作品には「かなり変わっ」たところが散見される。ゆえに、(これほどメジャーな作家をつかまえていうのも何だけれど)他人にはなかなか勧めづらいのである。ただし、いちど島田作品の魅力にはまってしまえば、普通の娯楽小説から盛大に逸脱するような点こそが面白く感じられてしょうがない。だからといって、是非、と勧めないのは書いてきたとおりである。

「君はここで何をしているんだ?」


 ビリー・ジョエルについて書いた前回の内容を見返していて、ふと、ある記憶がよみがえった。

 あれはもう5年前、ぼくが大学3年生で、就職活動に追われていたころのことだ。


 その晩、ぼくは某出版社の面接を受けるため、夜行バスで東京へ向かうため、大阪梅田の駅にいた。凍りつくような寒さの中、バスを待ちながら、ヘッドホンでビリー・ジョエルの『Piano man』を聴いていた。


 シングル『Piano man』は、まだ売れる前のビリーが暮らしのため、バーで弾き語りをしていたころの体験をもとにした歌である。ビールの匂いが鼻をつく酒場を舞台とし、土曜夜9時になると集まってくる常連たちの、哀愁に満ちた横顔を描いている。

 現状にうんざりして映画スターになりたがっているジョン、結婚する暇もなく小説を書き散らしているポール、その話し相手をつとめる海軍のデイヴィ…。酒に酔い、ピアノの音色に耳を傾けながら、つかの間、生きることの淋しさを慰める彼らは、弾き手である『僕』にリクエストする。『歌っておくれよ、ピアノマン。今夜は俺たちのために。みんながそれを望んでるんだよ。あんたは俺たちをいい気分にさせてくれるから』

 『僕』はつぶやく。『みんなここに来て、「孤独」という名の酒を酌み交わす。それでも、一人で呑むよりはずっとマシさ』


 まるで映画の一場面のような情景だが、この曲の本当のハイライトは最後にやってくる。淋しげな常連たちの姿に心を寄せ、その求めに応じて歌っていた『僕』は、カウンター越しの彼らから、こんなふうに声をかけられるのだ。

『ところで、君は、ここでいったい何をしているんだい?』

 と。

 この瞬間、とある酒場の哀感に満ちた営みから、それを眺めている当の青年の内なる葛藤へ、『Piano man』という曲が映し出す情景は、いっきに表情を変えるのである。……


 以前から何度も何度も聴いてきた曲だった。

 それなのに、東京行きのバスを待っていたあの夜、絞り出すように歌われる『君はここで何してるの?』――"Man what are you doing here?"のフレーズを聴いて、ぼくは心底震えた。

 自分がいったい何をしているのか、何がしたいのか、皆目分からないでいた当時だったからだろうか。この一節に込められた若き日のビリーの痛み――切なさや焦慮を伴った痛みが、まったく自分のものとして感じられたのだ。


 その後もことあるごとに、ぼくはビリー・ジョエルを聴き続けている。『Piano man』を聴くとき、ぼくは意識的に、或いは無意識的に、あの夜感じたような〈痛み〉を求めているような気がする。前回取り上げたアルバム『Cold Spring Harbor』もそうなのだが、ぼくにとってビリーの音楽とは、ふだん触れたくないような部分にあえて指先を置いてみるような、その〈痛み〉によって何かを取り戻そうとするかのような、そんな音楽なのだ。


『君はここでいったい何をしているんだい?』


 あれから5年たって、ぼくはいまだ同じ問いの前で立ち尽くしてしまう。それでも、この〈痛み〉だけは決っして失くしたくないと思う。


やっぱりね


 2か月前、知人の影響でブログを始めてはみたものの、以後、1回も書かなかった。われながら、なんといいかげんなヤツなんだろう。


 というわけで、気を取り直して身辺雑記。


 東日本大震災の影響で入学が1か月遅れてしまったものの、5月から、仙台の大学院に通うことになった。

 じつをいうと、ぼくは大阪の大学卒業→九州で就職・3年目で離職→現在、という妙なコースを歩んでいる。したがって、ひさしぶりの大学生活となる。同学年の学生たちからみても、ぼくは4つも年上である。


 じぶん自身、「大人になったな」とはまるで思わないが、年若の学生たちを眺めていると、やはりギャップを感じる瞬間がある。おおげさにいえば、「ああ、未来というのは彼らの手の中にあるものなんだな」と感慨に打たれる。もちろん、幾分磨り減っているとはいえ、ぼくにも、そしてほかの誰にも、〈未来〉はあるわけだけれど。

 世間知らずな真面目さ、或いは不真面目さ、それを支える根拠のない楽天性は、やはり〈若さ〉の特権のようだ。


 

 そういえば以前、〈若さ〉というテーマで、ロックバンドのアルバムについて考えてみたことがある。


 ロックンロールというもの自体、若者の若者による若者のための音楽というのがそもそもの出発点だったと思われるけれど――たとえば、ビートルズの1st『Please Please Me』である。わずか1日でレコーディングされたこのアルバムには、先に書いたような「根拠のない楽天性」のパワーがはちきれんばかりに充満している。


 ビートルズの全アルバムを録音順に聞いていくと、後期へ進むにしたがって、音楽がどんどん多彩になり、かつ奥行きを持っていくのが分かって、感動せずにいられない。しかしながら、『Please Please Me』にあった底抜けの明るさは、終点の『Abbey Road』にはもはや影もない。


 その『Abbey Road』に収録されている『Carry that weight』という曲は、レノン以外の3人(ポール、ジョージ、リンゴ)が以下のサビを合唱している。


 Boy,You're gonna carry that weight(少年よ、君はその重荷を背負っていくんだ)

 Carry that weight, a long time(背負っていくんだよ、これから先の長い間ずっと)


  この一節は、当時解散が決定的だったビートルズのメンバーたち自身について歌っているとする解釈がある。けれども、より普遍的な意味では、「若さの〈喪失〉」というテーマがここで語られているといっていいだろう。


 〈若さ〉というテーマでロックを考えるとき、個人的に印象深いアルバムがある。ビリー・ジョエルの1st『Cold Spring Harbor』である。

 ファン以外にあまり知られていないこの作品は、ほとんどピアノと歌だけで形作られているシンプルな1枚だ。ビリーのレコードカタログのなかでも、どこか異質な雰囲気がある。たしか、江國香織さんが同じように書いていて、「ピアノの音色がちょっと刺さる感じ」と評されていたようだ。


 『Cold~』を初めて聴いたとき、なんとメランコリックで、痛々しい音楽なのだろうと思った。ビリー・ジョエルは優れた歌手であり、作曲家であり、作詞家でもあるが、その詩は物語性豊かな詩情をたたえながら、妙にひやりとした感触がある。自虐的に自らをとらえる視線がある。『Piano man』や『The Stranger』はおろか、ヤケクソじみたロック魂を感じさせる『You may be right』でも、『I go to extremes』でも、ビリーはいつだってそうなのだ。

 『Cold~』には彼のそうした資質がすでに発揮されていて、同じ1stといっても『Please Please Me』とは180度ちがう。


 I see the way that I've been spendin' my days(自分が日々をどんなふうに過ごしてきたか、いまは分かる)
 And reality has caught me by surprise(突然、現実というやつから不意打ちをくらったのさ)
 I was dreamin' of tomorrow(ずっと明日を夢見ていたよ
、)
 So I sacrificed today(今日という日を犠牲にしながらね

 And it sure was a grand waste of time(そいつはとんでもなく無駄な時間だったんだ)
 And despite all the truth that's been thrownin my face(あらゆる真実が、ぼくの顔を目掛けて投げつけられたというのに、)
 I just can't get you out of my mind(どうしても君のことを忘れられない)
 But I've got to begin again(それでも、ぼくはまた始めなくちゃいけないんだ)
 Though I don't know how to start(その始め方ってやつが分からないんだけど)
 Yes, I've got to begin again, and it's hard(そうだよ、始めなきゃ、でもそれはとても難しいのさ)
 Yes, it's hard, oh, ooh, ooh(そうさ、とても難しいんだ…)


 上記は、『Cold~』のラストに収録されている『Got to begin again』という歌の一節である。この疲れきった青年のまなざしは、アルバムを通底するものであり、最後の曲に至って、聴く者を果てしない憂愁に誘う。


 〈疲れ〉というものは、生の感覚に深く根ざしているらしい。ひょっとすると、〈疲れ〉をより深く感じるのは、ある程度年を重ねたひとよりも、むしろ青年なのかもしれない。 その意味でビリー・ジョエルの1stは、ビートルズのそれとはちがった〈若さ〉の側面をたしかに語っている。