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ファッションセンスは消滅して既に久しい。今回は武道系男子の服装、道衣と黒帯についてのあれこれを。青春や思春期といった人格形成において重要な時期を空手道に捧げた代償として、ちゃらついたファッションセンスは私に備わらなかった。人生における大半を制服、道着、スポーツウェアという平凡ないでたちで過ごし、時にはトランクス一丁、全裸といった剛毅溢れる生活を送ってきた。誤解なきよう断ると、全裸というのは何も私生活で一糸まとわぬ姿になるということではない。主に実家に帰省した際、母上からあーだこーだと小言をたたきつけられたとき。私の中に眠る獅子が暴れ狂い、反抗心が発露する。母の唯一の癒しであるバスタイムに、全裸で踊り込むのである。これでもかという嫌がらせであるが、母親からは「三十路にもなろうとしているのにお前は・・・」という憐憫の情ビームが目から放たれ、私はそれを受けて目頭が熱くなるのである。余談はさておき。社会という荒波に丸腰で出て行ったところ、社会からの無言の圧力によってスーツを着用するわけで、せいぜいシャツとネクタイを連続で使用しなければそれで構わない。よって私の中に眠るファッションセンスは磨かれるどころか、より一層の異彩を放つこととなり、異性から注目や距離を置かれるという事態に陥っているのである。能ある鷹のように隠し続けた私の魅力は、とうとう私もどこへ隠したのを思い出せず発揮されることのないままになり、独身貴族への道を驀進する大きな原動力となっている。しかるにここで私のファッションについて滔々と書き連ねても、私にも読者諸賢にも何ら有益なことはなく、むしろ不毛の荒野へと導くことになろう。それは当ブログの主旨から大きくかい離し、斜め上へと突き抜ける結果となるため、これ以上踏み込むことを避ける。ただし、これはあくまでもチャラついたファッションセンスについてである。実は、武道系男子ほど衣類に信条を持っていることを伝えたい。□□□□□裁判官は漆黒の法衣を身に纏う。これは絶対中立、何ものにも染まらない裁判官の立ち位置を示す意味があるという。対して空手道ではどうか。冒頭に掲載したプロフィール画像を見て頂けるとわかるとおり、裁判官のそれとは対極にある白の道衣である。これは何も純潔を堅固に守るチェリーボーイの証などではなく、何ものにでも染まれる純白なのだ。十人十色という言葉がある。好み、性質、考え方は人それぞれに異なるという意味だ。初めてこの言葉に出会ったとき、「性癖はひとそれぞれ。同じように見えても決して全く同じことはない」という、独自性に溢れすぎた解釈をした私をだれが責められよう。捉え方によっては、「白」とは何色にでも染まる。何ものでも映しこむことができる色だ。さまざまな人と出会い、学び、いろんな色を映しこむことで自分だけの色、確たる自分を探す道。その道を歩む覚悟をしたとき、時には土に汚れ、時には血に汚れ、過程でどんな色に染まろうとも本当の自分に出会うまで付き添ってくれるのが純白の道衣なのである。格闘技雑誌などを見ると、ドンキホーテみたいな配色の道衣も最近では販売されている。柔道は判定のしやすさのために青の道衣を導入した。この時点で、武道の本質を放棄し、スポーツの中の一つ「JUDO」となった。□□□□□帯について。各流諸派によって過程は異なるが、ほぼ共通しているのが初心者は白帯であり、段を認められると黒帯になる。何も修めていない真っ白な状態から始め、法衣と同じく確たる自己を見つけたとき、すなわち段を取得するに至ったとき、何ものにも染まらない黒となる。もともとは白帯しかなく、稽古・鍛練を長い歳月で重ねると黒くなっていったため。または、色を染め抜く過程を模した。といったことを聞いた。どれが正解なのかは問題ではなく、自分が納得さえできればそれは正しい解釈で正解なのだろう。この黒帯については、それだけで一本の記事が十分に書きあがるのでまた機会を改めて。いまどきのイケメンは、確たる理由もなく頭をパイナップルのごとく奇抜なシルエットにし、確たる信念もなくズボンをパンツが見えるくらいまで下げる。日本人としてのアイデンティティなど介さずに毛髪を明るく染める。それがファッションなのだろうが、流行も栄枯盛衰。必ず廃れるときがくる。こんな時代だからなのか、こんな時代だからこそなのか。武道系男子は、流されることなく不動の信念をもって今日も道衣に袖を通すのだ。例えそれが、流行最先端のファッションについていけなくとも。 悪 即 斬 ...