昨日の夜中に警察に起こされて、あまり寝れなかったので朝から疲れました。
昨日の記事参照→こちら
でも、今日は語り部ガイドさんを頼んでいたので、早速待ち合わせの場所に行くと、
スタッフの方と語り部さんの二人がいて、レンを含めた3人で語っていただくことになりました。
まずは、語り部さんが
「まず申しあげたいのが、被災者の一人としてたくさんのご援助をしていただいたことに、本当に感謝しております。本当にありがとうございました」
と一礼をする・・・ ・・・
ごめんなさい、本当に何もできなかったです。
震災後、ちょっとした食料を運ぶのと、掃除を手伝っただけで、その後2年以上被災地に行けませんでした><
そして、その方の体験談が語られた。
羅賀(らが)という場所は、アイヌの言葉なので先祖はアイヌ人がだったかもしれないということから始まりました。

63世帯あったエリアで、23世帯が流出、犠牲者は7名。
被害状況を数字だけで見ると他の地域の方が目立ってしまうのですが、実は特異な地形の為、とんでもない津波の威力を目の当たりにしたそうです。
津波で犠牲になった人は、津波がまさかここまで来ないだろうと考え逃げなかったり、防災意識が多少甘かったためなので、今後はそのようなことがないように後世に伝えたいと言っていました。
地震から23分後、潮が一気に下がる・・・ 4mから9mの水深の場所の地面が見えたそうです。
わかりづらい写真ですが、奥にある弁天島というところまで、地面が見えたらしいです。

そして、第一波は緩やかに迫ってきた。
ただし、その威力だけは凄まじく、5mの防波堤は一気に壊れて、結構高いところにある道路の下まで来たそうです。

漁師さんの倉庫や舟は流されたけど、みんな助かったと思ったようで、その語り部さんも、上からその状況をずっと見える場所にいたみたいで、彼もまた安心したようです。
しかし、奥の方にとっても綺麗な透き通った波が一瞬見えたそうで、波は第二波、第三波が来ることがわかったらしいのですが、波は穏やかになって、安心した時に、いきなり目の前にバァ~~ンと波が上がったそうです。
専門家の方の話によると、台風などによる波はうねりをあげて迫ってくるものなので見えるのですが、あのような大きい地震は海中でうねりのようなものが発生し、肉眼で見えないそうです。それが陸にぶつかる衝撃で、水が一気にうち上がるのだそうです。実はそういったものはあまり映像に残っていなく、テレビとかでは紹介されてないようですが、その現象をカメラに収めた人がいて、語り部さんはその写真を持っていました。
たしかに20mとかそのぐらいは上に水が上がっているように見えました。
すぐそこにあったホテルの3階部分までは水が貫通して、一気に流し、語り部さん達19名がいた場所の足元まで水が上がってきたので、みんなでさらに上の神社を目指したそうです。

ちなみのそのホテルはあらかじめ頑丈につくってあり、5階部分が避難所としての役割を果たせるように500名入れる設計になっていたそうです。地震後、すぐに宿泊客40名を5km先の体育館に避難させ、従業員は5階部分で待機していたそうです。(波が来るとわかっていて・・・どんな心境だったのでしょう)

第二波の時に一気に水しぶきがあがり、5階部分ぐらいまで水は上がったけど、破壊まではしなかったそうですが、波にのまれた3階部分から風が一気に吹き上げ、従業員の人たちは5階にいても立っていられないぐらいだったそうです。幸い、そのホテルの宿泊客および従業員は全員助かったそうです。
第二波により、高台にあった道路が飲み込まれ、一気にその波が引く時に瓦礫が流れ込んだそうです。
瓦礫の山のせいで、語り部さんたちが避難していた場所と、交通網が遮断されたそうです。

それでも何人かの消防団の方がそこまで来たのですが、年配の方を移動できないぐらいの状況だったので、神社の中で寝ることになったようです。
運よく、その神社はそういったものを想定してか、ストーブとかがあったので、19名で一晩過ごせたらしいです。。
次の日、地元の消防団の方が、村の人たちが避難している体育館までの道のりを歩けるように、瓦礫をどかしながら、その神社まで来てくれたおかげで、村の人たちが集まる体育館に行けたそうです。
語り部さんいわく、その体育館はすごく恵まれた状態だったとのこと。
建設会社の人たちが自分たちの発電装置を持ってきてくれたおかげで、電気が通り、そのおかげでテレビで情報を得れたし、ライフラインの水はダメージがなく、水も使えたそうです。防災無線も使えたので、色々と備えもできたみたいだし、内陸の人と連絡が取れたため、そこに避難している人たちにとっては十分過ぎるほどの食料がすぐに届けられたようです。
多くの人が食べ物を持ってきてくれて、その場で調理して、震災の後間もなく、温かいご飯が食べれたそうです。
不便だったのがトイレだったみたいで、大人数にも関わらず、男性のトイレ(大)は1つ、女性トイレは3つ・・・
ただ、誰一人として文句を言わなかったそうです。
みんながみんなのことを考え、我慢し、協力して乗り越えたのだそうです。
そのおかげで、すぐに班を編成し、食事の手伝い、掃除、体操、物資の分配などが円滑に行えたそうです。
体育館生活が始まってから24日目に家に帰れたそうです。
ただし、家の流された人たちは、その後も体育館で生活し、仮設住宅ができるまでいたのですが、仮設住宅ができたのは数カ月後だったそうです。
現在は、高い場所に宅地造成が行われており、大きいエリアの造成が完成するとのことで、家をなくした人たちに土地が割り振られたようです。3月ぐらいまでにその大きいエリアが使え、別のエリアも6月ぐらいまでに造成できる予定なのだそうです。
だから、この街は復興に向けてはある程度はメドが立っていると言っていました。
海に近い道路は今後4mぐらい高く作ることが決まっているのですが、作業者と設計者が足りてないのでまだ始められないらしいのですが、復興や防災に関する工事に関しては、一度工事が始まれば2,3年以内に完成させるのだそうです。
※語り部さんが持つ写真には凄まじい波の写真があったので、見たい方はやはり足を運んで体験されてください。その写真の写真はさすがに撮れませんでした。おそらくそれはその方たちによって語られるべきもののような気がしたので自粛しました。
今回の旅で、たくさんのエリアを見てきましたが、作業をしていないエリアはなく、常に多くの人が堤防を作ったり、道路を直したり・・・ ・・・ 懸命に頑張っている人たちがたくさん見ました。
もう3年も経つのに、まだまだ下を向く暇もないぐらい懸命に作業がされているのは印象的でした。
※言葉がうまくまとまってません。 あまりにもたくさん情報が入りすぎて><
この語り部さんだけでなく、観光案内所の人、街の人、売店やレストランで会った人などから話を聞いてきたのですが、今すぐには書けないので、また別の機会にさせてください。
旅行の目的・・・ 少し達成できた気がします。
旅は続く...