ご無沙汰しております
3月1日に85歳だった父が突然他界し,
今まで何となくブログから遠ざかっておりました。
イタリア語で使っているフェイスブックやインスタグラムの更新は続けていましたので
そちらの方で近況を見ていただいている方もおられたと思いますが
今更ですいません。
なんでしょうね
日本語で書いているブログの方に書くのに抵抗があったというか。
半日もすれば古い情報が流されていくソーシャルと違って
ブログっていうのはきちんと残っていくものだから
ちゃんと心の整理ができてから書きたいなと
思っていたからだと思います。
とは言いつつ、
母の時と同じで
未だに全然実感がわかないので
ゆっくり自分のペースで書いていくことになると思います。
連絡を受けたのは3月1日のイタリア時間朝7時ごろ。
妹の旦那さんから電話で、
震える声で「お父さんが亡くなった」と。
亡くなっていたのを発見したのは
1日(日本時間の)お昼過ぎに自宅を訪れた、
週に一度家のお掃除に来ていただいていた
ホームヘルパーさんでした。
ヘルパーさんから連絡を受けて
妹と旦那さんが父宅へ駆けつけ、
その直後に
私に電話をしてくれたのでした。
救急隊員の方が父が亡くなっていることを確認したばかりで
今警察の到着を待っている、
そんなバタバタした状況でした。
少し落ち着いたらまた連絡をするということで
電話を切りました。
その日はクレモナの弦楽器製作学校で、
朝の8時から授業をしなければならない日でした。
学校を休んでも日本に駆けつけることもできないので
結局授業をしに行きました。
数日前に電話で話した時は元気だった父が
いなくなってしまったというのは本当に不思議な感覚でした。
検査の結果は
前日夜の間に死亡
突然のくも膜下出血で
ほとんど苦しむ時間もなく亡くなった、
ということでした。
病院嫌いで
死ぬ時は自宅でぽっくり逝きたいと生前冗談でも言っていた
父らしい最後だったのかな、と
思えるのがせめてもの救いです。
自宅で亡くなり、死後時間が経ってしまっていたため
火葬を待つことができず
今から日本に帰っても間に合わないという状況でした
そして、トリオでエントリーしていた大きなコンクール、
「ピネローロ-トリノ室内楽国際コンクール」が
その数日後に迫っていました。
悩んだ挙句、
ヴァイオリニストであり先生でもあった父が,
私がこのコンクールを棄権することは望んでいないのではないか,
このコンクールで精一杯頑張って良い結果を出すことが
一番の弔いになるのではないかと思い,
イタリアへ残りました。
結果は
第1位と,ブラームス作品最優秀賞,観客賞受賞
予選や本選での演奏中も,
一位を受賞した瞬間もずっと父のことを,
そして6年前に癌で亡くなった母のことを考えていました。
自然と涙が溢れました。
きっと天国で見守っていてくれたのだと思います。
穏やかで優しかった母と違い
昔気質で
しつけに厳しく
ヴァイオリンに厳しく
昭和一桁生まれで
ジェネレーションギャップもあった父
父と私たち姉妹の確執は小さい頃からありました。
幼少期は父親は絶対的存在で
100パーセント尊敬していました
躾として怒られたり体罰を受けることに対しての恐怖心
父に言われたからと
別に始めたくもなかったけど始めたヴァイオリン
レッスンがうまくいかなかった時怒鳴られることからの畏怖
でもその反面
父に褒められた時の嬉しさはとても大きなものでした
レッスンがうまくいくと「バンビ」
まぁまぁだと「うさぎ」
ダメだと「くま」
そのハンコを毎週土曜日のレッスンでもらい
バンビが10個たまると何かご褒美がもらえ
くまだと前にもらったバンビが消される上に
唯一練習しなくてよかった日曜日に練習しないといけない
だから「バンビ」のハンコがもらえたら
すごくすごく嬉しかったのです。
中学になると
私も少しずつ友達の家庭環境と
父が高齢で、母がその元弟子だったという
ちょっと変わった家庭環境の差に違和感を持ち始め
絶対的だった父に反抗するようになりました。
ヴァイオリンをやめたくなりました。
父が嫌いだったJポップやハードロックを聴くようになりました
高校でもそんな感じで
ヴァイオリンばかりしたくない気持ちから陸上部に入り
父に内緒で友達とカラオケに行ったり
ライブに行ったりしました。
でも、部活で帰りが遅いことに文句を言いながらも
なんだかんだ私たちのやりたいことは
尊重してくれていた父。
部活後、夜遅くにヴァイオリンを練習して
なんとか父とのバランスを保っていた気がします。
こうやって書いていると
少なくとも高校の一年生までは
ヴァイオリニストになることなど
少しも考えていなかったようです。
その辺りはまた改めて書くことにしますが。
だから父も私がヴァイオリンで留学を決めた時は
驚いていたし
嬉しかったんだろうと思います
今の私があるのは
若い頃から真面目に働いて貯めたお金で
留学をサポートしてくれた父がいたからだと
素直に思えるようになりました。
そうなれるまで、
本当に色々あったのです。
父のことが嫌いだったのは
父が私の理想としている父親ではなかったからで
父のことが好きなのは
師として尊敬できる
そして一本筋の通った揺るぎない信念を持った
自称、サムライだったからです。
そういう人が持ち合わす
精神的な脆さもあって
誰かを傷つけたり
選択を間違えたりした人でした。
親になるのって
大変ですね。
子供っていうのは
親がいなくなって初めて親の色々なことを
考えて
考えて
考えて
理解する
そういう生き物なのかもしれません。
少なくとも
私はそうでした。
今、私はまだ葛藤の中にいます。
イタリアでの滞在許可証の更新が長引き
10月までは日本に帰りたくても帰れないからです。
まだお父さんに直接挨拶も出来ていない
中途半端なまま
イタリアにいます。
早く帰って、
「お疲れ様、ありがとう」
と言ってあげたい。
そんな思いで毎日暮らしています。
















こちらもよろしくお願いします












