このりんごは、りんごとして完成しています。
このりんごは、りんごである、ということ以外に重要なことはありません。
しかし、外側にいる「わたし」や「あなた」はこのりんごを
おいしい、まずい、すき、きらい…
などそれぞれに判断します。
わたしというフィルターから見るりんごへの印象、味、香りと
あなたというフィルターから見るりんごへの印象、味、香りは
同じように感じても微妙に違っていたり
または全く違っていたりします。
そして、りんごを正面から見るのか
真上から見るのか
おしりから見るのか
でも…
りんごはりんごとして、すでに完成しており
ありのままで完璧なのです。
まずかろうが、美味しかろうが
りんごはりんご。
誰がどう判断しようとも、万が一りんごが思考を持っていたとして自分を卑下していたとしても
りんごとして完成しています。
人も、これに当てはめて考えてみると
同じように言えます。
いま、テレビのニュースで不倫や政治家の問題などたくさん報道されていますが。
これらについて、私の周りの方々からたくさんの意見が飛び交っていました。
私にも私の意見があります。
その時に私は、「この人は、愛のフィルターから○○さんを見ているんだなぁ。」
「この人は、批判的なフィルターで見ているんだなぁ。」と、少し遠い視点からその方々の意見を聞いていました。
私自身は、愛のフィルターから見ているだろうか?と自分に問う瞬間でもあり。
真実は、ひとつではなくて
多側面があると思うのです。
良い、悪いの二極化という時代ではなくなってきているかもしれません。
上江洲義秀さんの本に、とても美しい一節があります。
枯れ落ちた一枚の紅葉から、その紅葉が最初は小さな苗木でそこからスクスク育ち、青々と葉を伸ばし秋には色が変わりこのように枯れ落ちるまでのストーリーを、心で見ることができる人は豊かだと。
1人の人の人生にこれを見れた時
良い!悪い!とは言えないと私は思いました。
出会うその人のストーリーを見ることができる豊かな心を持てる人間でありたいし、自分もそのように見て頂けたらやっぱり嬉しいです。