フェイクスピア・鑑賞記録※ネタバレ注意※ | 気まぐれデトックス

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久しぶりに頭をガツン、と殴られたような観劇体験をしたので、たぶん最初で最後?の観劇記録を書くことにします。

但し、ネタバレになってしまうので、大阪公演含め全公演が終ってから、アップしますね。

というわけで、思いっきり空けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6/25(金)東京芸術劇場プレイハウス

キャスト

mono:髙橋一生

アブラハム:川平慈英

三日坊主:井原剛志

伝説のイタコ・星の王子様・白い烏:前田敦子

オタコ姐さん:村岡希美

皆来アタイ:白石加代子

フェイクスピア:野田秀樹

楽(たの):橋爪功

 

これは、ロビーに飾られていたセットの模型。

 

「フェイクスピア」公式HPより。

 

 

野田秀樹を動かし、この作品を生み出したのは、「一群のコトバ」だった。

彼自身の文字で綴られているとおり、そのコトバは、この芝居の最後、完全に、一言一句書き換えられることなく引用されている。

けっして書き換えられることなどあってはならない、「突如生まれた」強いコトバ。

 

キャスト以外、いかなる情報も、上記の野田秀樹の言葉すら事前には一切入れず、当日券で客席に座った私は、いきなり不思議な場に放り込まれた。

 

轟音と共に、人=木々が倒れていく。

誰も聴くもののない言葉は、言葉なのか。誰にも受け取られることのない言葉は。

舞い散り、降り積もっていく木々の葉。聴くものもなく、見られることもなく、散っていく言の葉。葉を茂らせ、散らすのは樹木。言の葉を横溢させるのは人。

 

なんとも怪異な雰囲気を醸し出す白石加代子。いきなり、「どーもー、白石加代子ですー」と登場するのだ。

彼女は、イタコの試験に何度も何度も落ち続けた「イタコ見習い」皆来アタイなのだという。

そして、50回目の、たぶん最後のイタコ試験を目の前に控えているという。

その彼女の前に現れ、口寄せを依頼する二人の男。

ダブルブッキングの二人は、アタイを尻目に自ら何ものかに憑依されて、会話するともなく会話し続ける。

年老いた方の男・楽(橋爪功)は、早速『リア王』として亡き三番目の娘への想いを語り、あるいは『オセロー』として自ら手にかけた妻を呼んで欲しいのだ、等と錯乱した依頼を口にする。

その度に、一方の若い男・mono(高橋一生)は、コーディリアとして、デズデモーナとして、マクベス夫人として、シェイクスピアの名台詞を口にする。恐ろしいほど艶やかで、女性役がよく似合う。夫に王殺しを唆すマクベス夫人、そして後段の洗っても洗っても落ちない手の血を洗い続ける狂気のマクベス夫人を見せる高橋一生の演技は、出色だった。

 

そのmonoは、口寄せの依頼に来たというのに、誰を呼んでほしいのかわからないという。

彼は「大切なもの」が入っている箱を抱えている。それを誰かに届けなければならない。しかし、その「大切なもの」がなんなのか、わからない。

 

烏=コロス=村人=乗客として、入れ替わり立ち代わりする人々、滑り台のように斜めになった坂がいくつも設置された舞台。白く荒涼とした風景。恐山を、そして「あの場所」を表象する風景。

 

先輩としてアタイを叱り飛ばす気風のいいオタコ姐さん(村岡希美)、やたらとノリのいい、神の「言葉を預かる」預言者アブラハム(川平慈英)、三日坊主(井原剛志)は、軽妙に掛け合う。神が言葉を創り、神から言葉を盗んだ「プロメテウス(火を盗んで人類に与えた)のイトコ」が人々に与え、神の怒りを受けたバベルの塔の崩壊と共に、あまりにも相互に異なる言葉を得た人々は、理解し合うことができずに混乱し争う。その「言葉」ゆえに、観る側は、何度も何度も笑いの渦に放り込まれる。

アブラハムと三日坊主は、偽り(フェイク)の友情、偽りの手紙ゆえに殺されたローゼンクランツとギルデンスターンとしても振る舞う。

フェイク、言葉(手紙)、死。散りばめられたイメージ。

シェイクスピアの「息子」として登場したフェイクスピア(野田秀樹)を交えて展開される、珍妙な会話、ボケとツッコミ。

フェイクスピアは、monoが神様から盗んでいった箱の中身=言葉を取り返そうとする。

 

そして『ハムレット』から亡き父、亡霊となった父と向き合う息子、というイメージが提示され、そろそろと主題に向かって物語が加速し始める。

確かに四大悲劇は、若い娘を喪う父の、最愛の妻を喪う夫の、突然父を喪った息子の嘆きに満ちている。そしてそれは、クライマックスのシーンに一気に収束され響き合っていく。

創作=フェイクにこめられた真実。

 

奪い、奪われるmonoの箱。

伝説のイタコと呼ばれるアタイの母(前田敦子)が「母親だけど、アンタよりずっと若い」と語り、生きることに疲れて自死を望む楽に、monoは「頭下げろ!」「頭上げろ!」「頑張れ」と、通り一遍に、おざなりに聴こえる、「その言葉」をかける。

 

 

砂漠に墜落した飛行機。

もちろん『星の王子さま』だ。

「たいせつなものは、目には見えない」

最も有名なそのフレーズも、落ちた飛行機も、斜面を転がるように滑るように横切っていく烏=コロスの群れも、それを率いる白い烏も、全て、その事件に、その真実の瞬間に、驚くべき勢いで凝縮され、増幅され、遥かに木霊してゆく。

 

monoの抱えた小さな金属製の箱から響き渡った、すさまじい雑音交じりの会話。

 

私が、「それ」と気づいたのは、どのあたりからだったろう。

あっと気づいた瞬間に、そこまでのあらゆるシーンに散りばめられたものごとが、言葉が、シーンが、全て重層的に、とんでもない圧力と重さをもって、ずっしりと、私の裡で響きわたった。

 

36年前の事件。

日本航空123便墜落事故。

520人もの方々が命を落とされた、最悪の航空機事故。

野田秀樹は「本」で読んだという、その墜落機のボイスレコーダーの声を、私は覚えていた。

実家と東京との間を年に何回も飛行機で往復する自分には、あまりにも痛ましく衝撃的で、機体が消えた、という初報から、ずっとテレビニュースを追いかけ続けたものだ。

後年出された飯塚訓のルポルタージュ『墜落遺体』や柳田邦男の『マッハの恐怖』『死角』『事故調査』等も読んだが、一番強烈に記憶に焼き付いたのが、「ニュースステーション」の冒頭で、520名分の履物をずらりと並べられたシーンと、確かNHKの検証番組で放送された、この30分余りのボイスレコーダーの声だった。(ボイスレコーダーなるものの存在を初めて知ったのも、この事件だ)

 

垂直尾翼破断という絶望的な機体の状況を把握することすらできず、なんらかの、とてつもない異常が発生していることだけはわかりながら、なんとかして機体を立て直そう、なんとか一人でも多くが助かる方法を、と、最後の最後まで必死に模索し続けたコックピットのクルーの会話。

全員亡き人たちの、本来ならば聴かれることを期待していないことばたち。

「(機体の)頭下げろ」

「頭上げろ」

「頑張れ」

全く同じ、そのありふれたコトバが、その、命を、己一人のではなく、524人もの命を背負った現場で発されている時、なんと痛切な力を、重みを帯びるのか。

斜面とキャスター付き事務椅子を利用して、右に左に上下に激しく揺さぶられ続ける機内を表現し、そんなパニック必至の状況の中でも、冷静に乗客に呼びかけ続ける客室乗務員(村岡希美)の姿が、痛々しく刺さる。

 

monoは、楽の父親だった。息子よりはるかに若い、亡き父。墜落機の機長。

「娘よりはるかに若い母」伝説のイタコの面影が、そこに重なる。皆来アタイの母もまた、事故機に搭乗し、若くして亡くなったのだ。職務を全うして。

アブラハムと三日坊主も、機長の左右でままならぬ機体と格闘する副操縦士として、そこにいる。

一言一句変えられることのなかったボイスレコーダーのやりとりが、恐ろしいほどの緊迫感で再現されていく。

 

最後の最後まで、墜落機のコックピットのクルー達は、職務にのみ集中して、家族への想いのひと言さえ口にせず、亡くなっていった。

 

乗客の中には、言い知れぬ恐怖の中、家族への言葉を書き残した方もいらした。

もしかしたら、確認された以上に多くの人びとが、家族や親しい人への最後の言葉を書き綴ったのかもしれない。

墜落の衝撃と火災により、喪われてしまっただけで。

指一本しかご遺体の残らなかった犠牲者の方もいらしたのだ。

届かなかった言葉、誰にも読まれることのない言の葉、それは、コトバなのか。

冒頭の問いかけが、深々と突き刺さる。

轟音と共になぎ倒されてゆく樹木は、散り降り積もる木の葉は、墜落した尾根の木々であり、届かなかった悲痛な最後の言葉たちだ。

決して口にされることのなかったクルーの家族たちへの思いも、読まれることのなかった別れの手紙も、届けるべき相手に届かなければ、コトバではないのか。

 

読んだ悲劇、と言葉遊びのように繰り返された、四大悲劇の流麗な名台詞と、平凡な、前の場でのそれのように、形だけ、その場しのぎ、とも受け取られかねない「頑張れ」のひと言、かのボイスレコーダーにおいては、むしろ小さく、絞り出すように囁かれていた励ましのそのことばと、いったい、どちらが、聴く人の心を激しく揺り動かすのか。

 

フェイクでないコトバ。

自分が創り出したわけでも、ましてや過去の巨匠(ギリシャ悲劇、シェイクスピア、サン=テグジュペリ)が紡いだわけでもない、どちらかといえばありふれた単語のみによる「コトバの一群」に隆起する、これ以上ないほどの人間の尊厳、生と死の真実に対して、千変万化するコトバの豊穣さで生きてきた野田秀樹は、おそらく、深く頭を垂れている。

イタコのことば、神のことば、巨匠のことば、見えることば、聴こえることば、見えないことば、伝わらないことば。

 

ノンフィクションのあまりの重さ、衝撃の深さに、フィクションの世界で生きる側は、しばし沈黙し、うなだれ祈りを捧げる。

と同時に、それを再構成し、フィクションの世界でもう一度語り部として語り直すことは、出来事の単なる再現ではないがゆえに、かえって「普遍的な悲劇」として、劇場にあるものの心をわしづかみにして、ガシガシと逆さなりに揺さぶることもあるのだ。

今の私が、観劇後一週間以上が経過しても、どうかしたはずみに思い出し、揺さぶられて涙してしまうように。

それが、創られた言葉の力だ。真実に裏打ちされた「フェイク」な言葉の普遍的な力。おそらくは、何十年、何百年が過ぎても。

 

楽の口にしたリア王の絶望の嘆き「鏡を貸せ。もし息で面が曇るなら、それなら、これ(コーディリア)は生きているのだ」

マクベス夫人としてのmonoが口にした「わたくしは、ほほえみかける赤子の柔らかな歯茎からわたくしの乳首をもぎ取り、その脳味噌を叩き出してみせましょう。いったんやると誓ったからには」

何百年もの間、様々な国の言葉に翻訳されて語り継がれてきた、こうした人の死について語る「名台詞」は、一言一句書き換えられることのなかった真実の瞬間の生の言葉、「強いコトバ」の一群に恭しく頭を垂れつつ、対照し重なり合って、よりいっそう、悲惨を、怨嗟を、観る側に強く刻み込む役割を果たす。

若くして死んでいった娘や幼子や、父の無念のイメージを喚起して。

マクベス夫人は実際には幼子を手にかけた訳ではないけれど、墜落機には生後間もない乳幼児も搭乗していた。

娘の棺に取りすがり、運命への呪詛の声を上げた老いた父親もいただろう。

無念だ、と書き残した父親である犠牲者も。

 

 

その事実が、重すぎるゆえに。

創作には、深い葛藤があったろう。

創っていいのか、語ってよいのか。

36年の歳月は、出来事を咀嚼し昇華し創作として生まれ変わらせる為に必要な時間であったろうし、亡き人々と遺族の方々への敬意と鎮魂の時間でもあったのだろう。

 

 

 

私の感想を聴いた我が子は、言った。

「自分には、もしその舞台を観たとしても、ママみたいにたくさんのことを感じられないかもしれない。だって、シェイクスピアの名台詞なんて知らないし、日航機の事故のことだって、そういう事故が昔あったんだなあ、って、知識として知ってるだけだもん」

 

もしかしたら、そうかもしれないね。

実際にあのボイスレコーダーの音声を、放送を通じてではあっても、慄きながら自分の耳で聴いた私と、ふうん、そうなんだぁ、と目をぱちくりさせる君との間には、それは、懸隔があって当然だ。

 

そしておそらくその懸隔は、自明のこととして、親しい人を突然喪う、あってはならない悲劇に実際に見舞われた人達と、私の間での方が、さらに、深く、大きい。

断絶、と言っていいほどに。

 

それでも、そうしてなんらかの形で「つないで」「語って」いくことが、伝わらなかったことば、届かなかったことば、口にされることさえなかったことばを、ことばという形をとった魂を心を、とむらいなぐさめることに、なるんじゃないだろうか。

 

生きることに疲れ、死を望んだ楽が、monoの不器用な励ましに「生きてみるよ」と呟くように答えた時、monoは、なんとも言えず美しく微笑んで、夕陽の向こうに消えていった。

口にされることのなかった機長=父の愛する息子への言葉は、36年の歳月を経て届き、確かに彼を勇気づけたのだ。

 

コトバ、ことば、言葉、言の葉。

葉っぱのように軽く、吹けば飛ぶようで、人の命を絶つ剣にも、救いの薬にもなる、ことば。

誠実なことば、不実なことば、軽薄なことば、受け止めきれないほどに重いことば。

この世には、あまりにもたくさんのことばが溢れかえっているけれども、本来、思いを伝え、伝え合う為にこそ存在する筈の、ことば。

あまたの耳で聴かれても、心に届かないことばを、このコロナ禍の中で、幾度聞いたろう。

対して、届けたい人に届けられることのなかったことばに込められた、こんなにも深い強い思い。

 

一度きりの、永く忘れられない「体験」となった舞台だった。