狂ったように京都の桜を見て歩いた。昼過ぎに下鴨神社は糺の森を出て、鴨川沿いをどんどんと下り、四条の橋まで。束の間の満開から、染井吉野は春嵐の襲来に、はらはらと花を失うころとなっていた。紅枝垂れ桜はたおやかにその枝を揺らし、いますこし、爛漫の名残を楽しませてくれそうだ。


四条を東へ。円山公園の奥まで歩くと、櫻守、第十六代佐野藤右衛門さんが先代、先々代の藤右衛門さんから引き継いで手塩にかけておられる祇園しだれに会える。藤右衛門さんが祇園の舞子さん、芸妓さんを連れてお花見に行かれると、藤右衛門さんの通るところだけ櫻の枝が揺れ、舞子さん、芸妓さんが気味悪がる、というお話が好きだ。この櫻は、とにもかくにも濃厚なたましいを宿し、にんげんよりもにんげんらしい姿で、凛と咲いているように思える。見上げて心の中で打ち明け話などすると、櫻がすべてを吸い取るようにじっと耳を傾けてくれている。そんな錯覚に陥らせてくれる。ここでじばし櫻と話し、祇園しだれはやがて黄昏。やがて日没。そしての夜櫻。


祇園しだれに別れを告げ、今度はかつてのお茶屋街が軒を連ねる新橋、白川沿いへ。情緒あふれる街並みからもれてくるあかりを白川の向かうに見ながら、川面に映った満開の櫻をいとおしみながら、川の手前、折り重なるようにして咲き誇っている櫻のトンネルのしたをゆっくりと西に向かって歩く。

こんなにうつくしいならば、トンネルの出口の先はもうこの世ではないのか。


この世この時だけ。そのうつくしさが櫻から降り注ぐ。

今日一日、考えもなく、歩きに歩いた。


櫻櫻のまた櫻。


わたしはにんげんだから、無様だっていい。

さいごの花びら一枚、散り切るまで、その無様を生きる。