母という丸 母という長四角





先日、母と二人でお伊勢参りをした。

母は、人生で初めてのお参りに、

古い写真を携えていた。


写真の背景は、母に連れられて帰省していた

母の実家。写真には、帰省のたびによく遊んでくれた

祖父がハンチング帽を被った、若かりし日の姿と、

見知らぬ女性が写っていた。


女性は、母が嫁ぐ前年、四十七歳で急逝した母の母。

私が会ったことのない祖母であった。


母が、この写真を私に初めて見せたのは、

私が亡くなった祖母と同じ年齢になった昨年。

それまで、写真の祖母が多喜恵という名であったことも、

母がその写真をすっと大切に持ち続けていたことも、

まったく知らなかった。


「一度、お伊勢参りがしたい」、とは、

亡くなった祖母が言っていたこと。

母は、自分の母親の果たせなかった思いを叶えたいと、

とずっと思い続けていたという。



 私の知っているのは、私の母として

 丸く切り取った母。


 その丸を切り出した元には、

 母が生まれてから始まって今の今までを

 生きてきた母のすべての歴史がある。


 母の誕生の瞬間から織り続けられている

 一条の帯のような歴史。

 そのほんの一部を切り取った母を、

 丸くしか私は知らないし、これからも知ることはできない。

 

 これから母が生きている間、

 帯から切り取った丸の外の、

 織りなす色や風合い、

 染みや傷み具合までもを、

 どこまで知ることができるのだろうか。


 嫁家で過ごして帰宅した母の日。

 夜の十時を回って実家に掛けた電話口の母は、

 いつもの丸い母であった。