遠花火

茉莉亜まり


 みぞおちを心地よく殴りつけるような爆音。

一瞬一瞬の一期一会で、夜空を彩る光たち。


正月から夏までに溜まった澱を、爆音で追い出す。しばしほうけたように、この世でもっともはかなくうつくしいとりどりの光を、生きて、自分の足で大地に立って見上げる。花火の宴はわたしにとって、俗世で体感する夏祓えのようであり、ほころびだらけの魂に、今の瞬間、瞬間だけでも、「人生まんざら捨てたもんじゃない」という絆創膏を貼り付けてくれるあかるい幻だ。


しあわせなあほうになって見上げるばかりだと思っていた花火だが、あるとき、はるか下界に、その宴を見下ろしたことがあった。四年前の七月。生きている、という圧倒的な実感に抱きしめられたくて出掛けた富士登山。夕方五時。真夏の太陽はまだ煌煌と照っている。バスの到着した富士スバルライン五合目からは、自分の足で山頂を目指す。スタート地点の標高は2304メートル。陽射しのわりに涼しくしゃっきりとした空気に包んでもらいながら、一歩、また一歩と歩を進める。ほかならぬ自分の足で歩かなければたどり着けない。


富士山頂へも、どこへも。

 

歩き始めてから3時間余り。夕映えもすっかり鳴りをひそめた。延々と山頂を目指す登山者のヘッドライトの明かりだけが、闇に揺れていた。ふと足を止めて振り返り、登り来た道の闇を辿って下界を見下ろす。彼方、河口湖辺りの動かない街灯りが、ちばめられた豆粒ほどに見える。その上空、わたしのいるところからは遥か下方に、ぽっ、と花火が開いた。ぽっ、ぽっ、と開き続けた。


明。滅。明。滅。苦。楽。生。そして、死。

人はあの灯の中で、一瞬で開いて消える花火のように生きているのだ、と思うと、涙がとめどなく流れた。(終)