三番はこのようにします。
「地を満たせ」ということなのですが、どういうことなのか。
地を満たしなさい、
これは、地を統治しなさいということです。
統治というのは、
人格体である人間とかかわりがある概念です。
創造主の神は、天地の主権者であって、
統治エリヤを持っていますけれども、
神がエデンの園を造り、その中に造られた人間を入れました。
2章8節。
それがエデンの園です。
神は人たちに、生めよ、ふえよ、という統治エリヤを
拡張させていくことを願っていらっしゃるわけなのです。
地を満たしなさいということは、
開発しなさいということではなくて、
神の御国を拡張させていきなさいということなのです。
人間が新しく開発する必要はないのです。
拡張させて行くということです。
地を満たせというのは、
カナンのときには文字的なことになりますが、
新約時代以降は、福音を伝えて、
神の御国を拡張させて行きなさいということ、
そのようなかたちになります。
今も私たちに、神の御国を拡張させていきなさい、
ということなのです。
それを神が統治するということです。
全部統地するのではなくて、
神の御国になったものを統地するということです。
神の御国になったものを神の管理下に置く
ということなのです。
神の管理下にいるのは、
神の御国が臨まれたその人なのです。
神の統地を受けるものが神の民であって、
そこに神の主権で神がそれを成すということです。
洪水のさばきのときには、
神の統地エリヤは箱舟の中であって箱舟の外ではありません。
その中が神の統地エリヤなのです。
箱舟の外側はどうなのかというと、
神の統地を受けることを拒否するものたち、
それをさばく神の主権のエリヤなのです。
ただやさしいことばではないです。
出エジプト当時はどのようなかたちで
統地されたのかというと、
過越しの祭り、小羊の血が塗られた、
かもいの門柱の中だけが統地エリヤなのです。
小羊の血を塗られた中だけが神の統地エリヤであって、
外側はさばかれるところであります。
こういう中で神が、
中にいなさいと言われたときには、中にいなければならない。
けれども何で中にいなければならないの?
と言って外に出てしまうと、その人は死ぬわけです。
出エジプト12章22節
を見ましょう。
ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、
その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。
朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
このように書いてあります。
外に出てはならないと言われたら、そうしなければならない。
なぜならば、外に出てはいけない
と言われたときに外に出たら、
神の統地のエリヤを出た者だから、
神の統地を受けないということですから、
保護されないということで、さばかれるということです。
またエリコ城が滅びるときにも、統地エリヤがあります。
その時には何と言ったのかというと、
ヨシュアの2章12節
を見てください。
どうか、
私があなたがたに真実を尽くしたように、
あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、
今、主にかけて私に誓ってください。
そして、私に確かな証拠をください。
これは遊女ラハブが言ったことですが、
エリコ城はものすごく大きいところなのですが、
偵察隊を送ったら、私たちはイナゴみたいです。
そのように恐れたところなのですが、
また偵察にふたりを送ったら、
このような人がいたわけです。
神の統地のエリヤの中に入ろうとする人もいるわけです。
このラハブ、またエリコ城というのは全く異邦なのです。
この人が神の統地エリヤに入ろうとするわけです。
先ほど言ったルツも異邦人の女なのです。
けれどもその人も神の統地エリヤの
ところに来たので保護されたわけです。
結局はルツとボアズをとおして、
その系図からキリストが生まれるのではありませんか。
この時にもそうなのです。
見てください。
私たちは今、エリコの城みたいなところに住んでいます。
ここにはあらゆる武器や、
あらゆる発展されたものがすごくあります。
立派なものがいっぱいあるわけです。
私たちが見ても口を開いてふさがらない、
驚くべきものが、いっぱいあるのではないですか。
そういう中で、何人かが、
小さなものたちが逃げてくるわけです。
逃げてきてこの女のところに来るわけです。
その時ただその人間だけを見たら、
突き出したら賞金いくらになる、となるわけです。
でもこの人たちをかくまったら自分たちは殺されるし、
もしかすると一族もろとも殺されるかもしれない。
みんなの前で処刑されるかもしれない。
それなのにその人たちを見て、
私に確かな証拠をくださいと言いながら、
逃げて来たあなたたちが信じている神を
私も信じたいと。
人が見たときにはどれだけみすぼらしいし、
どれだけ弱々しく見えるのでしょうか。
でもどうもあなたがたが信じている神が、
まことの神だと思うから、
あなたがたをかくまってあげるから、
確かな証拠をあなたがたも私にくださいと、
ここでラハブは言うわけです。
それでそうしましょうと。
目には見えないことなのですが、
目に見えないことを信じるのが信仰ではないですか。
ヘブル書にも書いてあります。
そこで、窓に赤いひもをつり下ろしなさいと言います。
それをラハブが信じなかったら、
自分たちの家族だけを殺すために、
そのようなしるしまでつけろと言うのだと、
そのように思ったでしょう。
それなのにそれを信じた。
これは本当にすばらしいし、
だからこのラハブの系図からイエスさまは生まれました。
それで結局このことを通して、
後でその人たちが攻撃に来たときに、
窓から吊り下げた赤い糸を見て、
その家族だけが殺されずに守られました。
エリコ城、そのすべてが全滅し、人は死にました。
それならイスラエルの人たちは、
それだけの武器を持っていたのでしょうか。
みすぼらしいものばかり。考えられないものばかりです。
ですから、戦いは常に私たちの手にあるのではなくて、
神の手にあります。神が戦っています。
その信仰を持たないと、
いつも目に見えるものにすべてのことを頼り、
妥協するとやられてしまいます。
私たちも何かがあったときに、どちらを選択するのか、
それによって神の統地のエリヤに入るのか、
それとも目に見えるかたちと、現実と体験とを見て
そこに行くかです。
こんにちの統地エリヤはどこかというと、
キリスト・イエス以外にはないです。
何があってもキリスト・イエスの中。
ここから抜け出たら危険信号です。
それで、生めよ。ふえよ。地を満たせという意味は、
こんにちのクリスチャンにはいつまでも有効となる
命令だということを肝に銘じてください。
神の御国を拡張していかなければならない。
だからクリスチャンたちは、
キリストから派遣された者として家庭を、また教会を、
またそれを神の御心どおりに
治めなければならない責任があります。
私たちの職場や私たちの家は、キリストの代理者として、
私たちが王、祭司の役割をしなければならない
ということです。
そしてその人たちのために祈ってあげる。
それで神の御国がその人たちに臨まれるようにと。
Ⅰテモテ3章5節
を見ましょう。
―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、
どうして神の教会の世話をすることができるでしょうー
このように書いてあります。
だから自分がいる所、自分に与えられた場所、
そこを治めることが先だということです。
でもいくら言っても
キリストを信じなかったらどうしよう・・・。
それは私たちが関与することではありません。
私たちは信じる信じないより、
私たちがその中で、ちゃんと神のかたちとして造られたなら、
神と交わっているのかが先です。
それが先です。
またその人たちを見て、
そこでその人たちのために祈るわけなのです。
王の権限で、祭司長の権限で。
キリストの代理者として。
そのようにしたいのですが、
聖書をとおして人間を見ると、
私たちはいつもいつも神を裏切り、
神の御心と正反対のところを歩んでいますけれども、
絶対それによって神は諦めたり、落胆したり、
途中で中断したりしないで黙々とご自分のことを成し遂げて、
それですべてのことを“事は成就した”
というところに何があっても完成させて行くのでしょう。
ただ唯一の解答というのは、
キリストの贖いによって回復してくださる
ところにありますから、と言っています。
黙示録の21章6節。
最後にみんなで読みましょう。
また言われた。
「事は成就した。
わたしはアルファであり、オメガである。
最初であり、最後である。
わたしは、渇く者には、
いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
求める者にはくださる。
渇いても求めなければ仕方がないのですが、
求める者にはいのちの水の泉から、
価なしに飲ませてくださる。
神からいつも価なしに泉を、
それが私たちにいつも潤いを・・・
そのような思いで1週間、
また一生涯過ごすことが最高の幸せで、
感謝だということを覚えておきましょう。
今日の
創世記1章27、28節
を通して学んだことは何なのか。
それを通して人間はどうであって、神はどのような方で、
それで今私たちは現実の中で、あらゆる状況の中で、
どのような選択をしているのか。
それを選択したのはなぜか。
それを黙想するだけでも神は平安を与えるし、
また神と十分交際できるように、
再び私たちの心と思いと考えと、
感覚を取り戻してくださると思います。
そのような主に感謝し、
私たちは1週間過ごしたいと思います。
それで私たちは早め早めに、神の統地の下に戻るのです。
勝利は私たちのものであります。
問題は、目に見えるかたちがいくら良く見えたとしても、
その明日はわからない。
そのような状態に、
神の管轄を離れた状態が問題なのであって、
神の管轄の中にいるなら、
こうなっても、ああなっても大丈夫です