今思えば、私は過度に自意識過剰だった。「あんな風に思われたい」または「あんな風に思われたくない」が頭の中をいつもぐるぐると回るようになる。

 

自分に常識が欠落しているのではないかといつも恐れていて、それがばれないようにしなくてはいけないという不安で頭の中は常に不安でいっぱいになる。

 

或いは、自分には魅力が足りないのではないか、「魅力的な人」=「人徳」のような思い込みがあり、どうすれば魅力的に見えるかということばかり不安になって考えるようになっていた。

 

今はだいぶましになっている。この平安がいつまで持つのか、自分でも分からないが、このまま今の平安な状態を維持できることを願いたい。

 

今日はまだ耳鳴りが酷い。

私は激しい被害妄想の虜だった。正当な怒りを感じることはもちろん正しいが、私個人の「正当な怒り」に対する基準は低く、一度怒りを感じるとそれを決して忘れないという特質があった。

 

そのため、人間関係は必ずと言っていいほど破綻せざるを得なかった。当然と言える。いかなる怒りも必ず忘れてその責任を追及する姿勢を崩さないのであれば、人間関係は成立しない。人は互いに迷惑をかけあい、許しあって生きるものだからだ。しかも私の場合は、〇〇はあの人のせいだ。〇〇はあの人が悪い。と思い続けてきたのだから、人間関係はやはり必ず破綻する。

 

幻聴があったのが土曜日のことで、今日は火曜日だから3日経っている。今は幻聴はない。ただ、耳鳴りはある。今日、この数年なかったほどよく眠れた。眠れが気力が湧いてくる。ただし、心身への負担がシビア過ぎたため、まだ暫くは静養が必要だ。

 

あと数週間も眠れが元気になると思う。自分の心の動きを観察して、書き続けてみたい。

最近、ようやく自分が躁鬱だということに気づいた。躁の状態の時、自分は最高の人間、万能な人間だと錯覚する。お金もバンバン使う。やたらと自慢話をするし、大言壮語をする。人に対して優越感を持ち、相手には威圧感を与えます。

 

医者からは「重篤な人格障害」と言われたことがありますが、何がどのように重篤で、何がどのように人格障害なのか、よく分からない。という悶々としたものが残りましたが、簡単に言えば自分をよく見せたいという願望が異常なまでに強く、自分が劣っていると決して認めたくない、自分は何をやっても素晴らしい人間だと周囲に思われたい。もし自分に何らかの瑕疵があるということがバレれば、或いはバレたということが分かれば今度は一機に鬱に落ちていく。鬱に落ちれば引きこもり、他者との往来を拒否する。

 

このような躁と鬱を行ったり来たりしていたことがわかった。自分の人生はこの躁鬱で振り回されていたに過ぎなかった。

 

気づけば楽になる。今は静かな気持ちでこれを書くことができている。

 

酷い鬱だった時期を抜けた後、自分が鬱になったのは〇〇のせいだ。〇〇のせいで自分はこんな目にあった、自分の人生を破壊したのは〇〇だ。返せ、弁償しろ。と思っていた、自分に損害を与えたと私が勝手に認識した人物を激しく憎んだりした。

 

しかし、実際はそういうわけではなかった。自分が躁になった時に、万能な自分が相手に罰を与える。自分が鬱になった時には相手に情けを求めるを繰り返していた。全てを外に求めていたのだが、全ては自分の内面にある躁鬱症によって自分自身によって創出していた現象だった。

 

人生はいかなることも自分で作り出しているとよく言われるが、その意味がようやく分かってきた。躁鬱になった原因は自分の人生に対する考え方の甘さにある。他人に過度な期待を持ち、裏切られれば怒り出すというのは甘い考えを持っていたからだ。

 

今は夏休みなので静かに過ごせる。夏休みの間にゆっくりと体調を整えて、次のステップに臨みたい。