。「DQじゃないけどDQ」って,本当にすごいことよ。 そもそもシリーズものって,マンネリズムとの戦いなのよ。もちろん,ハードによって特性を出さなきゃいけないし,進化もしなければならない。でも,残すべきは何か? そこがハッキリとしてなければ,rmt,シリーズものの人気とクオリティは保てない。 で,その「残すべきもの」はシステムであったりグラフィックスであったりだけではなく,それらを含めた「プレイした時の“らしさ”」っていう,意外と論理的ではないふわふわしたものなのかなあって思うわ。プレイする側の感覚としてはね。 もちろん,ゲイムはつまるところ数値の集合体だから,作る側としては論理で作らないといけない。けれども,ジャッジするのは論理の分からない我々で,となると当然ながら緻密に計算されているであろう作り手の論理までは分からない。だから大ざっぱにいうと「プレイした時の“らしさ”」でシリーズものとして楽しめるかどうかを決める。 で,その「プレイした時の“らしさ”」っていうのは,スピンオフ作品にとっても命綱なのね。ここがしっかりしているかどうかを,プレイする側がジャッジするわけだから。そういう意味では,このスラもり3はDQという看板を掲げてもまったく問題がないと,DQ派の私としては思うわ。 繰り返しになるけど,rmt,私はスラもりシリーズは今回が初プレイなので,これまでのことはよく分からないんだけど。ひとまず,あの雰囲気が好きなDQ派はプレイしてもいいと思うよ。 ちなみに,作り手の論理はジャッジする側には分からないというくだりに関連したよもやま話だけど,作り手と消費者との評価が違うということは,ゲイムでもそれ以外のエンターテイメントでもちょくちょくあるわよね。 作り手が「俺が凄いことをやった」と断言したゲイムで,実際に業界内での評価が高かったりしても,実際にプレイしてみたら, なんでそこまで業界内で評価されているのか分からなかったりすることってあるじゃない。 もう一つ例えれば,武藤敬司選手がなぜ天才と呼ばれているのか。私もファンの時代には分からなかった。でも自分がプロレスをヤるようになった今なら分かるわ。説明もできるけど,たぶん私がする説明だけでは見ている側はわからない。なぜなら,この場合は私も作り手だから。 こういうのって,もちろん受け手側でも分かる人は分かるんだろうけど,基本的には「受け取った側がどう感じるか」で商品としての評価は決まるわけだから,分からない人には分からないのね
関連トピック記事: