意外に読んでいない本の一冊。
構成が面白い。
北極探検に向かおうとする(向かった)ウォルトン氏の手紙 → フランケンシュタイン氏の告白 → 創造された”もの”の内面吐露
という入れ子構造。
タイトルにもなっている主人公(?でいいのか?)の名前が出てくるのは、冒頭から邦訳でなんと89頁も過ぎてから。
創造された”もの”が、途中で本を読んだとしても大層な物知りになっているのはアレだが、そういうことはつまらないこと。
描かれるのは圧倒的な孤独感。
ウォルトン氏は気心のあう友達をいないのを憂いており、今もっとも欲しいと姉に手紙で書き送る(p32)。
フランケンシュタイン氏もかつては一人を除いて「学校には友達らしい友達はいなかった」(p68)。
創造された”もの”も壮絶な孤独感に苛まれている(p185)。
そしてその感情こそが物語を駆動する。
もう一つのテーマかなと思うのが共感。
創造された”もの”は苦労して、相手の内面を理解しようとする(12章~13章)。
しかし誰も彼の内面を理解しようとしない。彼を創造したフランケンシュタイン氏までも。ラストの悲痛な叫び(p393-400)。
創造された”もの”が望むのは自分を受け入れ理解してくれる存在だけ(p236、261)。
それからあくまで印象だが、どこか反知性主義的なものも感じる。
キリスト教文化圏なら仕方がないのかもしれない(イギリスは国協会だけど)。
たとえば、知識を得ることがいかに危険なことかが登場人物を通じて語られる(p98)。
唯一の友人ヘンリー・クラーヴァルは「ギリシャ語を知らなくても、腹いっぱい食べさせているんだからな」と父親に言われてなかなか大学に進めない(p111)。
創造された”もの”は知識を得ることで内省することや自意識が生まれ、却って苦しむことになる(p217-218)。
知的探求の後の疲弊(単なる疲弊も含む)や狂的状態を、自然が癒すことが繰り返し描写される(p62、130、174-181、251)。
立派な心理主義的小説。
ほぼ誰も幸せにならないこの小説の中で強烈な孤独感を描くことで、シェリー夫人が何を訴えたかったのだろう。
ところでコールリッジの「老水夫行」の一節が2回出てきて伏線のようになっている(p37、109)。
これはどういう意味なのだろう。調べてみたい。
Shelly, M: Frankenstein; or the modern prometheus. 1831
小林章夫訳:フランケンシュタイン 光文社古典新訳文庫、東京、2010