途中まで読んで長らく放置だったのだが、仕事の関係でやっと読了。

 森田療法のことはもちろん、脇道の話がとんでもなく面白かった。

 

 

  森田療法関連

 森田は正岡子規の生き方から学んだところもある。(p16)

 

 症状を治すことではなく、人間性を伸ばすことが目的。(p40、50、204ほか → 第六章のCBTとの違いで強調される点)

 

 治療者患者関係に「唯我独尊」的自己愛の共有があるのではないか(牛島定信 p41)

 

 仕方がないことは仕方がないと諦めるが、仕方があることは仕方を追求する。(p195)

 

 あるがまま、気分本位で唱えられているのは「心の平安」や「感情を整える」ことではない。むしろ自然な感情を大切にする(森田は「純な心」と表現した)。

 注意されているのは、<しなければならないこと>や<したいこと>がありながら、その時の感情(症状に伴う不快)でそれをおろそかにすること。(p214-215)

 

 

  関係ないけど面白かったこと

 岡倉天心の言葉

 「実際を逃がるるは可なるも、実際を失ふは不可なり」

  (形をうつさないことはOKだが、本質は失ってはならない)

 「無意味の写生には不足なり。独り景のみにて、情なくんば不可なりとす」(p126)

 

 天心の「日本美術史」の主張(p127-128)

 1)趣致:欲望的面白さの抑制

  1)-1 物外の感情:対象物の外、物の心・情を感じて表現する

  1)-2 実物的:物と一体になって、その本質に迫る

 2)世外心:世俗的でないこと

 3)古法の尊重

 

 形相

 哲学的には「精神の眼でみられた形」 (p135 要するにidea)

 辞書的には「内面の本質を見るべき外面の様子」

 橋本雅邦的には「内面の本質である相が、形をとって現れる」(?)

 

 徒然草 第157段

 「外相もし背かざれば内証必ず熟す」

 (言動が理にかなっていれば、内面も悟りに向かって成熟していく) (p140)

 

 森田療法と関わりのある下村湖人

 「教育はある意味では本質的に不自然である。(略)新しい自然への努力だから」

 (p167 当然、ルソーの影響)

 下村は「家庭煉獄説」を唱えた

 (!p173 家庭のごたごたにこそ成長の契機があるということらしい)

 

 資料的に重要なのが第二章の「神経質」

  ベアードの「神経衰弱」、ジャネの「精神衰弱」との比較と概念の通史

 

 

感想のようなもの 

 いわゆる「森田療法臭い」治り方が、本来の森田療法の目指すものと異なるという点が良く理解できた。

 森田が自宅でこの方法を行っていたことに驚いたが、一方で経済的負担をきちんとかけている点は見事だと思う。転移概念はないのに処理されている。森田自身の試行錯誤の結果なのだろうか。

 ところで森田の発想は、体質に状況が掛け合わさり、そこに症状形成機序が加わるという理路で、クレッチマーと共通性があると思う。

 全体的に、方針は意外にもフロイトに近く、技法はフランクルに近く、精神病理はクレッチマーに近いという印象。

 

 

 

岡田重憲「忘れられた森田療法 歴史と本質を思い出す」 創元社、東京、2015