土曜日に仕事を終えて、慌てて参加。

 間に合わなくて、質疑しか聞けず。

 

 ディスカッションされていたことを、ざっくりとまとめると以下(文責:ブログ主)。

 

 

 アフォリズムは、断片化された文章を意味や文脈を考えて自分で補完する作業が必要で、固定した文章として受け入れることとの間に緊張関係をうみ、新しい意味を創造しえる独特な文体。

 社会性を帯びた文章なので、書き手は読者の存在を明確に想定している。

 特に18世紀のフランスでは、書き手と読者間の共同体形成が目指されていた。

 

 ところが実際には、ある程度の教養を持ち、一定の理解力があり、うまくアフォリズムを活用できる共同体と、文字通りに受け取り、自分で考えずにアフォリズムを誤用する共同体が生じた。

 

 アフォリズムは啓蒙時代に生まれたが、そもそも啓蒙という発想が矛盾に満ちていた。

 想定されている読者は啓蒙されるべき「大衆」。

 一方で、その「大衆」に、前提となる知識の所有、読解力、安定した感情、書き手への敬意が要求された。

 そしてそれらは、18世紀の「大衆」は持っていない/持てないものだった。

 

 

 

 面白かったのが、芥川とアフォリズムについて発表なさった先生の御指摘。

 芥川の文体は「である」が異様に多いのだそう。

 断定的でいわば自分だけ高見にいるような文体で、そういう彼にアフォリズムはあっていたかもしれないという。

 

 もう一つは朔太郎とアフォリズムについて発表なさった先生の御指摘。

 朔太郎は詩とアフォリズムに接点があると考えていたのではないかという。

 

 私が似た例で思い出すのは中勘助だった。

 

 

<感想のようなもの>

 フランス人演者から「日本文学にアフォリズムはあるか」という質問があり、日本側演者の先生方がやや戸惑われていた。

 

 その質問を聞きながら、私が区別がついていなかったのが、アフォリズム、箴言、格言、ことわざ、慣用句の違いである。フランス人演者はmaximeという言葉も使っていたので格率も入るだろうか。

 

 帰宅していくつかの本などで調べると

 慣用句:語を組み合わせて特定の意味をもたせた比喩の一種。

 ことわざ:古典などから引用された言い回し。常識を伝えるものが多い。

 格言:教訓となるような内容の短い文章。=箴言、金言、Maxime

 (ちなみにカントの格率は主観的に妥当な原則)

 ということらしい。

 

 慣用句もことわざも「意味が限られている」。また比喩か、比喩に近いもの。

 一方、アフォリズムは「解釈に幅」があり、時に新しい意味を生み出す修辞。

 

 

 ところで、臨床で慣用句やことわざを使うのはどうか。

 概ね教訓的な内容なので、遠回りな説教になり、考えようによっては嫌味。

 ただし、治療者「だけ」の意見ではないことを強調したい時に、あえて使うのはありかもしれない。

 

 アフォリズムはどうか。

 意味が曖昧で、新しい内容を生み出すことができる・・・・ある意味、精神分析の解釈と同じように思える。

 曖昧さは患者さんを揺さぶるだろう。 

 患者さんにしっかりと考えてもらいたい時や、あえて揺さぶりたい時にはいいのかもしれないが、同時にきちんと患者さんの気持ちを抱えていないと危険な気がする。

 

 ということで、私は面接でアフォリズム(箴言、格言)は使わないことにする。

 

 

 

 

「アフォリズムと通念 日・仏・独文学をめぐって」 5月13日 於・明治学院大学