仕事の合間にWEB聴講。
くたくたで途中で意識がなくなっていた。
19世紀まで、文学・芸術は「模倣」、つまり既存の要素の再結合が独創性だった。
発明inventionはvariationの創出に過ぎず、些事だった(タルド)。
ところが19世紀半ば、ヴァレリーは「新しさは滅びやすいが突出した価値で、他の価値にとってかわる」と主張し、「驚き」「ショック」が美の定義となる(ボードレール)。
以後、新しさへの注目が始まる。
フーコーのエピステーメ―、クーンのパラダイム概念。
発明は漸進的更新が可能な確立と定義され、技術革新innovationの時代になる。
では、文学や美術はどうか。
新たに確立してもすぐに古くなる技術と、永遠で無時間の傑作。
新しさと芸術の相性の悪さを示す例で、私も好きなカンブルメール侯爵若夫人の逸話が提示される。
経済領域でさえ、この2世紀の加速度的成長の後、長期的成長に戻っているという。
文学、教育、研究に至っては、生産性の向上はほとんどない。
ベートーベンの曲を現在の会場で演奏するのと18世紀の会場で演奏するので、時間や手間は違うだろうか。節約できるものはなく、コストは増加する一方になる。
古代ギリシャで行われていた教育の手間や時間と、現在、教育にかけられている時間はどれほど短縮しているだろう。
コストだけを考えることをある経済学者が「コスト病」と名指しているという。興味深いのが、日本の若手知識人が一時期(今でも)称揚した、多数のオンライン講座で大学の代替にするPJが北米で行われたが、失敗と判定されたという。修了者が10%に達しなかったからだ。
もちろん、道具としてのPCやネットなどは、文化に利便性をもたらした。
技法としてのイノベーションは文学にもあった。
ボードレールの散文詩。ブルトンの自動書記。フローベールの自由間接話法。ジョイスとウルフの意識の流れ。
しかし、イノベーションは文化に何らかの向上をもたらしただろうか。
コンパニョン先生が注目するのが、読書である。
モンテーニュが初めて読者という主体を発明して以来、私たちは<時間をかけて><孤独に>書物を読んできた。
孤独の中で行う読書のイノベーションとして、速読や電子ブックの創出がある。
さて、これらは文学の生産性をかえただろうか。
<感想のような印象のような>
最近、主に文系で議論されている、効率性や有用性が文化に何かもたらしたかという筋の議論。世の中には手間暇をかけるべきものがあるという、良い意味で保守的な議論で、私は大賛成。
コストや生産性を考えると、バッハのマタイ受難曲を聴くのはムダでしかない。何も生産しないし、時間がかかるだけだ。チケット代も高い。私の住んでいる場所から初台に行くまでの時間もお金もムダにしかならない。
私の領域なら、教育や治療にコスト/タイムパフォーマンスを導入する<改革>が行われているが、「ちょっと意味が分からない」というのが個人的な感想。
速読術というイノベーションは、知識をインプットするにはコストがいい。しかし、この方法では、文体や文章を味わい、読むことで何かを考える時間は、おそらく、ない。
栄養を取りたいのならプロテインやビタミン剤、微量元素を飲めばいい。
しかし、食べることには、風味や味わいも楽しむことも含まれる。高級料理に至っては、文化的背景を考えることや美的な歓びさえ得ることができる。
「コストを優先して生きる」ことを糾弾したり非難するつもりはない。
私と違う価値観だと思うだけだ。
日本学士院客員選定記念講演
アントワーヌ・コンパニョン「文学とイノベーション」
於・日本学士院会館 2023年4月