”我流で短歌を楽しむ”の続き。
私は恋歌よりも、以下の系列の歌に惹かれました。
一つは朔太郎が好きそうな、景色を雄大に描いた歌。
もう一つは厭世的な歌。
内親王は長い時間「ながめ」る、あるいは「みるまま」に描写することに優れた歌人という評価だそうです(p51)。
確かに観念的なところはなく、「みたまま」風景を描写しています。
なのに、寂寞感や孤独感が溢れ出てくるところに、私は惹かれます。
いま桜 咲きぬとみえて 薄ぐもり 春にかすめる 世のけしきかな p10
桜が一斉に満開になり、春霞の中、遠くまで延々と続く美しい景色。
秋風を 雁にやつぐる 夕ぐれの 雲ちかきまで ゆく蛍かな p28
漢字表記すれば「雁にや告ぐる」。
遠く空を飛ぶ雁と、近くで彷徨っている蛍が、あたかも近づいていくように重なって見えている(のだと思います)。
ともに、奥行のある広い空間を歌っていて、式子内親王の違った側面をみたような心持ちに。
厭世編。
花はちりて その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる p14
風さむみ 木の葉晴ゆく よなよなに 残るくまなき 庭の月影 p48
「さむみ」は「寒み」で<寒いので>、「晴る」は文脈から<広くあく>で<晴れる>という意味ではなさそうです。
「よなよな」は「夜な夜な」で<夜毎に>。
どちらの歌も似た風景を詠っています。
<花びらが/木の葉が散り、霞んで雨のふる春空が/秋の夜空が、空虚なまでに開かれて見える>
「よなよな」
何だか惹かれる語感です。
式子内親王は他にも「さえさえて」「末々」など畳かける歌を詠んでいます。(p53)
以下は晩年の作のようです。
ほととぎす その神山の旅枕 ほの語らひし 空ぞわすれぬ p84
本書の解釈では<ほととぎすよ。その昔、神山の神館で仮寝の一夜を過ごした夜、ほのかに語らうように鳴いていた。その初夏の明け方の空が忘れられないことだ>。(p84)
「ほの語らひ」は<遠くから、かすかに語り掛けてくるような、あの鳴き声>と表現したほうがいいなと私は思います。
内親王は斎院(さいいん)として若いころ神社で祭祀を行っていたそうで、当時を振り返ったのが、この歌。
晩年、孤独の中で信仰に生きた(p110-111)内親王が、まだ若く、輝くような将来が待ち受けていた頃を、懐かしく思い出している歌。
そう考えると、この歌の表面にあるのどかさが、かえって物悲しい。
ところで、この歌は源氏物語に本歌があり、恋歌だそうです(p86)。
もしかすると、若い頃に恋焦がれた人を思い出しながら、内親王はこの歌を詠んだのかもしれないと思うと、ますます切ない。
暁の ゆふつけ鳥ぞ あはれなる ながき眠りを おもふ枕に p92
ゆうつけ鳥は「夕告げ鳥」で鶏のこと。
素直に読むと、朝方に鶏の鳴き声を聞いて眠りから目覚め、なんと爽やかな朝だろう・・・という歌のように思えますが、違うそうです。
「ながき眠り」は無明長夜(むみょうじょうや)の意味で、煩悩に満ちた世界を表している(p93)、つまり、なんでもない風景を描きながら、内親王にしては珍しいことに観念的なことも詠んでいる歌なのだそうです。
「日常の一端をとらえ、理屈っぽくなっていないところに好感が持てる」(p93)。
私も同じような意味で惹かれました。
構成が複雑なので、解釈も分かれているそうです。
「鶏の声で長い夜から目覚める」のか「長い夜から目覚められない嘆き」なのか(p93)。
私は<動物である鶏は、生命の流れに従って自然と目覚めることができるけれど、人間である私は、人間であるがゆえに煩悩の世界からまだ目覚めることができない>と物思いに沈んでいる歌ではないかと思います。
日に千度(ちたび) 心は谷になげはてて あるにはあらず すぐる我が身は p96
幾たびも気落ちしてしまう・・・自分が自分であるのか、わからないままに時が過ぎていく・・・
静かなる 暁ごとに 見わたせば まだ深き夜の 夢ぞかなしき p100
この歌の「夜」も、先ほどの<煩悩>の意味で(p101)、<衆生が煩悩から覚めないことを悲しんでいる>というのが本来の解釈。
私はそのまま<夜>ととりたいです。
<静かな夜明けを迎えるごとに、この世界を見渡す。人々はまだ眠りに落ちて夢を見ている。私だけが、たった一人、ここにいるのだ・・・>
とてつもなく深く、凍りつくような孤独感。
その哀しみを詠んだ歌、と考えたいなあと。
最近、和歌を自由に楽しめるようになりました。
これも朔太郎のおかげということで(ただいい加減なだけ)。
(Wikiより転載)