出張ラッシュが終わり、しばらく職場での作業に集中できそう。
都内に移動中に読了。
1192年の十字軍で停戦中のエルサレムが舞台。
主な登場人物は3人。
家族を失ったユダヤ商人ナータン。
弟が行方不明のサラディン。
サラディンに捕らえられるも釈放されたテンプル騎士団の青年クルト。
そこにナータンの娘レヒャが絡むことで明かされる意外な事実。
いくつか引用。
神様って誰のものなの?(略)その人を神様のために戦わせるなんて、どんな神様なの?(p113)
迷信で一番たちが悪いのは、自分の迷信をほかの迷信をよりましだと思っている迷信です(p189)
子どもには愛が必要です(略)キリスト教の教育なら、後からできます(p206)
本を読んでする冷たい学問が、あんまり好きじゃないんです。死んだ記号が頭に刻み込まれるだけだから(p241)
本作でもっとも理知的なのはスルタン。
主人公は賢人とされているが、”ユダヤ人一般”はやはり揶揄される。(p80、90,94、175、191)
とはいえ、キリスト教の大司教も教条主義的俗物として描かれる。(p171-178)
本作はハイネやケストナーが愛した(解説p280-281)啓蒙主義者レッシングの代表作。
宗教への盲目的服従を退け、既存の知識にもたれかかり過ぎず、自分の頭で考えることの大切さ、つまり理性的であることの重要性が説かれる。
ドイツでは古典戯曲として「ファウスト」に次いで人気なのだという。(解説p280-281)
レッシングにとって宗教と聖書は別で、聖書を歴史的テキストと考えていたらしい。(解説p284)
とはいえ、信仰を否定していなかった。
彼は「文字は霊ではない。聖書は宗教ではない」「私は神学の愛好者であって、神学者ではない」と述べていたという。(解説p288-289)
いわゆる理神論の立場だろうか。
レッシングの態度がよく分かるのが次の言葉。
もしも神が右手にすべての真理を握りしめ、左手に真理を常に探究し続ける欲求だけを握りしめているとしよう。しかもその欲求は、お前を常にそして永遠に迷わせることになる。そしてそのとき神に<どちらかを選べ>と言われたなら、私はうやうやしく神の左手にすがって、こういうだろう。<父よ、こちらをください。純粋な真理はただあなた様のものですから>「再々抗弁」1778 解説p293
レッシングが特別なのか、それとも真の啓蒙主義者とはこういうものなのか分からないが、彼は「正しさ」を主張することを選ばない。
啓蒙主義者で理性を重んじるレッシングにとっても、「正しさ」を知ることができるのは完全な存在である神だけだからだ。
では不完全な人間である私たちにできることは何か。
これが正しい、これが答えだと、安易に立ち止まらない。
正しさを追求し続けること。「分からない」という中途半端さに耐えること。
考え続けて「永遠に迷う」かもしれなくても。
ヤスパースの開放性Offenbarheitにつながる。
宗教については、表紙に描かれている「3つの指輪」の寓話が秀逸。(p139-143)
元ネタのボッカチオの「指輪の寓話」も同時掲載されている。(p266-271)
何かに依拠せず、自分の内省力を頼りに考え続ける。
啓蒙主義というと、非現実的な理想論で説教臭い上に押し付けがましいと思っていた。
しかし、レッシングの主張は、ヤスパースの哲学が好きな私には素直に入ってくる。
丘沢静也訳:賢者ナータン 光文社古典新訳文庫、東京、2020
Lessing GH: Nathan der Weise. 1779