長らく積読だった本。

 備忘録。

 

<距離感>

 観客のように面談にむかうと、患者さんへの情緒的反応が軽くなった。(p14)

 遠戚の叔父のようにふるまう。(p38)

 

<技法>

 幻聴への対応:「その神と話がしたい」(Jacson DD)、「幻聴の主に伝えてもらいたいことがある」(p30)

 

 わからないことがあったら患者さんに尋ねる。それをしないということは「患者さんを信用していない」(p71)

 → 一例(p187-188 第10章のSV):自分の発言で症状悪化を招いたのではないかと考えていた治療者。SVerから「患者さんに謝ってこい」「患者さんに聞いてこい。お前がそう思っているだけで、逆にお前の妄想じゃないか」と指摘される。

 翌日、「面接がまずかったかと思って、ごめんなさい」と謝罪し、懸念していたことを伝える。すると患者さんはその点は否定し、さらに状態も改善。

 

 問題の外在化の陥穽:外在化されたことを「問題」と思い込み、問題対患者さんという構図にしてしまう。(p73)

 Epston (1996)問題の排除を意図していない。その問題とalternativeでより好ましい関係を想像し活性化することが狙い。

 問題と人との関係が問題。その問題は、ある意味ちょっとした友達にもなるかもしれない。(p92)

 

 何を語ったかではなく、どう語ったか。語りの内容の解釈をすることが目的ではない。(p107)

 

 患者さんの日常生活など症状と関係ないようにみえるものに、変化のための大切なものが含まれる。(p130-131)

 

 面談が”盛り上がった”時、面接を理想化することで生じるかもしれない家族への影響に制限をかけておく。

 面談についてどう思うか、あるいは「面接で盛り上がると、急に冷めてあれ?となることがあります」「次から辛くなることがあります」など伝えておく。(p141)

 → 家族は善意でやっていることを、治療者はあくまで仕事でしている(p142)

 

 患者さんが乗ってこないときは、仕切り直し。(p149、155)

 

 患者さんが治療者を嫌うところこそ大事。嫌うこと自体を話題にできるのは治療くらいしかないから。(p159)

 

 何を使うかは直観。(p165)

 

 

<理論>

 Batesonのdouble bind theoryの意図は病理的であるというより、一つの学習された反応様式だという主張だった。(p59)

 この様式は治療者患者関係でも起こりえる。

 

 MRI派では「一番汗をかいている人」に会うことを優先する。

 問題そのものでなく、問題解決しようとする、その解決の仕方が、問題を長引かせているという仮説に基づく。(p62)

 

 治療倫理:倫理規定などではない治療の倫理

 患者からのフィードバックを含んだものとして精神療法をすすめる。

 → 率直に精神療法経験自体を問うてもいいのではないか。

 これは効果判定とも重なる問題。

 もっと喜びに満ちた倫理性があってもよい(p169)

 → 神田橋の指摘と同じ

 

 

<児童面接について>

 治療者がいじりすぎないこと。

 特に思春期はそれ自体いわば病気のようなものなので、下手に病理扱いしない。(p241-242)

 

 話が飛ぶことに合わせること。

 話の内容、心などに焦点を当てず、子供の興味関心に注目する。(p254-255)

 

 母親も教師も「子供はこう思っている」と言いがちだが、実際にはそうでもないことが多い。

 子供本人にどう思っているかをきちんと尋ねる。(p244-245)

 

 ANで多いのが、妻の夫への不満を、子どもが「父親に不満を持っている」と主張すること。(p245)

 

 あまり核心にふれた話をこどもはしたがらない。ただしゃべるのが楽しくなってもらえればいい。(伊藤先生 p257)

 「XXな時にどんな気持ちなの?」など自分でもわからないことは言いたくないだろうから聴かない。(同)

 聴かない方がいいこと:お父さんとお母さんの関係など。こどもは分かっている。こどもに失礼。(同)

 

 プレイセラピーをしながら、全然遊べていない治療者がいる。(p259) 

 

 

<そのほか>

 「限定否定」:会話の受け手がずれた返答をすること(井村、木戸 1973 コミュニケ―ションの病理 異常心理学講座9 精神病理学3、川久保, 家族療法研究4(2):80-87,1987)

 → SやDzで多い

 相手が黙ったり顔を背けたりしなければ、話すことは厭ではないのだから会話を続ければいい。(p277、281)

 

 精神分析は人を心、内面、家族療法は人をシステムとしてとらえた。実際は比喩なのに実体化していないか。(p287)

 → 柄谷(1980):知の遠近法 現象と本質、表層と深層、現れたものと隠れたもの、一と多などの認識形式

   柄谷によればバフチンも、発想や表現を組織化する中心は外部にあると、述べていたらしい。

 

 他者性を認めることが対話の中心になる。(p297)

 あるいは倫理となる。(p298)

 

 

<読後感想と思いつきメモ>

 これまで学んだことの復習、考えてきたことの確認になった。

 本書で刺激だったのが第12・13章の伊藤勢津子先生のSV。

 私は児童専門ではないのだがとても参考になった、というか、私にとって理想の面接。

 ごく自然な会話が治療になっている。

 本当に羨ましい。私にはこのような面接はできない。

 以下の辺りは本当に感動。

 

Th 宿題とか?

A 宿題はね、帰ったらするよ。すぐ終わるもん。

Th はー、偉いねえ君は。

A 偉い?偉くないよ。

Th 偉すぎ。

A 偉くなーい。泣くもん。

Th あーあ!わかったぞお。

A わかった?何が?

Th 偉すぎるから、泣くんだ。

A なんだそりゃ。変なの。偉かったら泣かないよ。

Th うん。偉かったら泣かないけど、偉すぎると泣くんだよ。

A えーっ。何それ。

Th ねえ、ダーツもう一回戦だけやらない? (とダーツを始める p228-229)

 

 大事なことを、さらりと、しかも理屈でなく伝え、その後、すぐに遊びに移る。

 賢いAくんには、これだけで十分に意図が伝わっただろう。

 それだけではない。

 伊藤先生が、くどくど余計なことを言わないことで、Aくんの理解力を信用していることまでも伝えている。

 心がどうとか、認知がどうとか言わない。もちろん、怪しげな誘導もしない。

 

 いい面接は終わり方まで素晴らしい。

 

A (略)先生とお別れだあ。

Th 泣かないでよ。

A アハハ、泣かないよ。先生ダーツ練習してよ。

Th はーい、じゃあまたね。あっ、またね、じゃないか。

A またね、じゃないよ。 (p234)

 

 笑いの中に、別れの悲しさがほんの少し混じっている。 

 この章だけコピーして手元に置いておくことにした。

 

 

 思いつきメモ:発生的了解は、記述により法則性をさぐる、つまり柄谷(1992、1999「ヒューモアとしての唯物論」)のいう一般性への回帰にあたる。発生的了解/了解心理学を突き詰めると、その人の固有性を消し去ることになる。了解不能こそ個別性への到達を意味する。

 ヤスパースが了解心理学(世界観の心理学 1920年代)から実存(理性と実存や哲学は1930年代)に向かった理由ではないか。

 

 

 

児島達美ほか:ディスコースとしての心理療法 遠見書房、東京、2016