ドゥルーズのマゾッホ論が積読になっていたのだが、ちょうど新訳が出たので改めて作品を読んでみた。
前半までとても面白い。
気になった点を引用、整理。
<語りの構造/通底するテーマ>
主要な筋の語り手とは別に、その語り手が書いた本を別の誰かが読んでいるという二重構造。
別の「私」が読んでいたヘーゲルを落とすところから物語は動き出す(p16)。
論理から離れることの比喩? ヘーゲルの主と奴隷を暗喩?
キリスト教的な精神性より、ギリシャ的な歓びを上位に置く(p44-52、54、74)。
<マゾッホの考える男女の関係性>
男女平等はありえない。女性を支配するか、女性に隷属するか(p53)。
結婚は男女平等と同意に基づくが、偉大な情熱は敵対によって生じる(p70-71)。
男女は敵対し伴侶になれない。伴侶になるとすれば、男女が権利も教養も仕事も同等になったとき(p272-273)。
気高く太陽のような、男を裏切らず、優しくて運命を分かち合うことができる女性か、でなければ、美徳も貞操観念も慈悲心もない女性を求める(p69-70)。
女性を賛美したい(p71、74、87、205、208、211)。
男の中にあるのは奴隷(p87)。
愛する対象は、自分より上位の者だけ(p71)。
<性について>
肉欲を超越している(p72、78、188)。
反=性的、非=性的
性を受けつけず、女性に対して理由のわからない恥を感じた(p73)。
性を含意した女性への愛は下劣(p75)。
<マゾッホの求める加虐・被虐関係の構造>
相手の女性に愛されている(p61、67,104、110、115、128、136、155、161、169、177、198、203、258、269)。
相手の女性は知性をもち、趣味がよく、対等に会話ができる(p144、191、197)。
特殊な愛の形態なために契約を交わす(p121、170-172)。
支配は法、権利の行使、暴力で行わない。支配者の美と性格の力だけでなされる(p124)。
契約下では名前が失われる(p140,201)。
フェティッシュを伴う(p186-187)。
相手の女性は常に理性的(p252)で、役割を演じていることを自覚している(p253、270)。
相手の女性が、本人の規則に従って残酷で無慈悲なら愛する対象たりえるが、規則から逸脱した行為をすると平凡俗悪gemeinで憎しみ軽蔑の対象になる(p241、248)。
相手の女性は、完全な男を求めている。
完全な男とは、女性に畏怖の念を呼び起こし、自分を征服するような男(p63、225、236-237、247、260)。
本人は空想、妄想にひたる(p78、80、82、86、90、92、97、104、114、130、136、163、188、190、262、267)。
<マゾッホの求めた愛の背景にあるもの>
母への深い愛(p241)。
聖母への強い敬愛(p205,211)。
<マゾッホの求めた加虐・被虐関係からの離脱で生じること>
労働と義務を果たすこと(p269)。
肉欲の超越という幻が消えること(p273)。
反=性、非=性ではない、つまり性の世界に参入すること
<読後印象>
相手の女性が本当はどのような感情を抱いているか全く分からないのだが、完成度を云々する作品ではないと思うので、描写通りに受け取ることにする。
語り手は、憧憬の対象である女性との結婚を望むが、キリスト教の制度である結婚は、ギリシャ的感性を持つ相手の女性にとって制縛でしかない。結果、神前で行われる聖なる契約である結婚の代わりに、神不在の中で加虐・被虐関係が個人間契約として結ばれる。
相手の女性にとって男を支配し加虐することは契約上の役割であり、語り手によってそのような情熱を煽られた部分が多少はあるとしても(p93,131,249)、本来の性質や趣味ではない(p92-93)。彼女は加虐行為の後、慌てたり恥ずかしそうにするシーンが確かにある(p100、157-158、169、197)。
また、語り手の課したルールから逸れた行為を相手の女性がすると、語り手は彼女のことを軽蔑すると非難する。相手の女性は、自身の性格の美しさの力によって支配することを望んでいるので、語り手から侮蔑されることは彼女の望まない支配・被支配関係になることである。
つまり、この関係をコントロールしているのは奴隷である語り手である。
マゾヒズムが見かけと違い、一概に受動的とはいえない点はよく指摘されるが、本作の構造がそうなっている。
もう一つ興味深いのが、この被虐行為・被支配関係は、非性的な性質のものだという語り手=マゾッホの主張である。
語り手は被虐行為で性的に興奮していないし、相手の女性も加虐行為の際におそらくそうであるだろうように描写されている。
母親を深く愛する語り手は、成熟した性関係の手前にいる。
自分より知的にも美的にも上位にある女性、幼い男の子にとっての母親のような女性を求め、性を回避した/回避しなければならない愛情関係を望む。
しかし成人である語り手が、性を完全に回避することは不可能である。
このため、彼には部分的対象を愛するフェティシズムがある。
さらに単なる被支配ではなく、過剰な情動や欲動が刺激される隷属を選択することになる。
そして、この関係からの離脱によって、彼は性の世界に入り、義務を果たし得る<大人>に成長することになる。
それにしても2人の関係は、悲喜劇としかいいようがない。
相手の女性が求めているのは、空想しているだけではなく(p114)行動する”本物の男”(p131、134)だ。彼女は、語り手が男らしく真面目で思慮深く厳格だったら結婚したと語っている(p250、270)。
しかし、語り手は男女が平等ではないために支配か被支配しかないと考え、賛美するに値する結婚したい女性には隷属するしかないと考える。相手の女性はそんな男を求めていないのに。
そして女性は語り手を愛するがゆえに、契約として支配者の役割を演じる。
奇妙で歪んだすれ違い。
後半はともかく前半の、男女が本当の意味で伴侶になるためには同権になることが必要だが、そうではないので支配・被支配しかないというマゾッホの理論を、フェミニズム界隈ではどのように評しているのか、読んでみたい気がする。
許光俊訳:毛皮を着たヴィーナス. 光文社古典文庫、東京、2022
von Sacher-Masoch L: Venus im Pelz. Cotta, Stuttgart, 1870