治療者の成長について考えたくて買い求めたのだが、少し違う内容だった。

 なお精神分析の本でよく出てくる「罪悪感」は、私には少しピンとこないことがあるので、所々「自己嫌悪」に読み替えるようにしている。

 

 

 <患者の敵意にどう対応するか>

 患者が自分の経験やパーソナリティを治療者に投げていると考えるより、患者が治療者に潜む一面を刺激していると考えた方が有用(p16)。

 

 患者が治療者をどうみているかを通じて、治療者も自分自身を知ることへの抵抗を克服していく必要がある(p30)

 

 治療者が破壊的攻撃に生き残ること(p203)

  

 ストレイチー論文(1934 松木らの邦訳あり「対象関係論の基礎」):

 患者の攻撃性を治療者が恐れている時、自分の感情的反応が意図せずして出してしまっていることも治療者は恐れている。

 この際、治療者は自分の敵意と交流している。そのことで中立的でなくなり、さらに患者の敵意を煽り、患者は治療者に傷つけられたと非難してくるかもしれない(p69-70)。 

 例:猜疑心がテーマで、治療者を疑っている患者。治療者への患者の敵意を認識せず、「あなたは自分のことを疑っているのですね」と患者に伝えてしまうと、”あなたは懐疑主義者だ”と非難することになり、治療者への疑いが余計強まる。

 

 患者の対象が、患者の敵意の犠牲者であるのと同じように、患者の一部もその犠牲者である(p202)

 

 患者の敵意や憎しみの程度を知ることが重要(p202)

 

 攻撃や敵意が、患者自身のこころの痛みや無力感の”鎮痛剤”になっていることがある(p210)

 

 患者の攻撃性や敵意について考えること(p46、216など)

 

 考え抜くことができるまで、不確実性の中で耐えなくてはならない(p48)

 感情的混乱は治療者の思考能力を奪う(Moey-Kyrle 1956 p86)

 → ネガティブ・ケイパビリティ(Bion、Keats p89)

 

 道徳的判断ではなく、今現在起きていることを記述する(p90)

 厳格なまでに正しくあろうとする背景には恐怖があり、それは臨床的思考を曇らせる(p95)

 ビオンのβ要素:道徳的構成成分(1965「変形」 p49)

 ビオンは治療の主要な障害を、道徳性が優位になることと述べている。β要素は自分で取り除かなくてはならない(p49-50)

 「訴えられるかもしれない」など、道徳的倫理的問題に直面した場合、道徳とは別の観点から考える

 

  また、Caper(1992「米国クライン派」邦訳あり)は、分析家の仕事は”分析する”ことで、患者に、転移で患者が何をしているか、誰に対してしているか、それはなぜかを、正確にわかりやすく説明することだけだと述べている(p106)。

 

 

 <精神分析について>

 精神分析理論の流れ:

 性的願望の制止→道徳的葛藤→願望と現実的制約との葛藤(p29)

 

 精神分析の目的:

 自分自身についての知識を患者にとって耐えられるようにする(p30、66 ストレイチー論文1934)

 例:妬みを感じている場合、自己破壊的にならないように自己嫌悪を体験するようにする

   能力を自覚している場合、他人に優越しているという罪悪感を和らげる(p30)

 患者自身が患者を引き合わせる。

 自己についての知識を許容できる。

 感情を回避して苦しむのではなく、感情を以前より甘受する(p97 Bion)

 

 超自我概念の変遷(第2章)

 モデル、理想→道徳性、エディプスC→保護的かつ脅威的(Klein)/現実性?

 

 フロイトの不安論(p79 1920「快原則の彼岸」)

 不安は恐怖から人を守る何かがある。

 

 フェテシズム:

 恐ろしい不在のかわりに、自分を興奮させる具体物で代用する(p215)

 

 フロイトの感情的距離のモデル:

 「外科医のように」(p112)

 

 フロイトの治療観(1933):

 フェレンツィの「治療し援助したいという欲求」を軽蔑した(p106)

 

 治療(分析)の本質

 自分の理解を超えたもの気づけるように奮闘すること(p149)

 

 

<治療すること>

 思い付きの重要性(p193)

 

 治療者の2つの理想/葛藤(p98、104)

 患者の世話を熱望し、安全で信頼できる環境を提供する =親 =治療者が患者を支配する治療的熱意になってしまう(p105)

 妥協なく探求したい 患者を治す野心を断念する必要性(p106)

 

 患者は、治療者を鈍感で万能な神様のような母親と感じるか、虐待者か傍観者として体験するかもしれない(p176)
 

 あるがままの自分でいられることは患者の特権で、これを説明することが治療者の責任である(p180)

 

 何かを手放せば、その結果、それは内在化され得る。

 自分のものにするのではなく、断念によってである(p113 Sedlak2016)

 

 転移・逆転移を生活史や病理との関連から検討せず、改善につながる体験を提供しようとすると治療の特異性が失われる危険性がある(p190)

 すぐに症状改善に結び付けず、まずは考えること

 

 

<楽観的治療観への戒め>

 Sharp E(1950):身体を癒す欲動は(略)サディズムと不可分で、(略)サディズムの不安は、患者を治すことで打ち消されている(p109)。しかし治癒は(サディズムの)不安を打ち消すことでは得られない。
 

 フロイトの疾病観(1917):取り除けない現実の苦悩があること、そのために健康を犠牲にせざるをえないことはある。神経症患者は葛藤のたびに疾病への逃避をするが、それが正当と認めざるをえないこともある。その場合、医師は患者から手を引くだろう(p119-120)

 

 助けられない患者もいる(p228-229)。

   

 

<理解すること>

 治療者は、患者の語りを取り入れ、同一化して、患者を内的に理解し、再投影して解釈する(Money-Kyrle, 1956:メラニークライン・トゥデイ3に収載 p36)

 

 

<治療者の成長>

 治療者は自分の過ちを認めて変化できる。

 治療者が変化する過程を患者に提示することで、治療過程も変化する(p178)

 

 

 <読後感想>

 了解や治療観でヒントがあり学びになった。

 本書は、患者の攻撃性や敵意に対して、治療者がどう応じるかを主に論じている。

 患者の攻撃性を治療者がうまく扱えるようになれば、やがて治療者も自分の情緒について適切に考えられるようになり成長するという趣旨なのだと思う。

 患者の敵意から目を逸らさず、自分自身の敵意も自覚し、患者の敵意と自分の敵意を区別して、患者がなぜ敵意を持っているか、その意味を考える。

 とても難しい。

 

 ある症例で、治療者を訴えそうな気配をみせた患者に対して、率直に不安と恐怖感を抱いたことを著者は書き記している。しかし、著者は不安に飲み込まれず、倫理的問題を慎重に検討して、自分に瑕疵が無いことを確認し、その後に患者の怒りについて考えるように切り替えたという。

 読んでいるこちらがはらはらし、同時に著者の臨床能力に尊敬の念を抱いた。

 Bionの道徳云々の引用は、この点を述べたいのだろうと思う。

 Bionも同じような経験があったのだろうか?

 

 また、精神分析と一般の精神療法の違いに、”治療に熱心すぎないこと”を分析が強調する点がある。

 この違いは少し考えたい。

 

 

 ところでフロイトの1917年の発言は不勉強にも知らなかった。

 大変に重要だと思う。

 

 安易に「治す」などと口にできない、厳しい現実は確かにある。

 

 

 

 

 

乾吉佑監訳:心理療法家の情緒的成熟 逆転移に含まれた超自我、自我理想、盲点を考える 創元社、東京、2022

Sedlak V: The Psychoanalyst's Superego, Ego Ideals and Blind Spots; The Emotional Development of the Clinician. ‎ Routledge, London and New York, 2019