いろいろと大人げないが、私は人間ができていないのでいくつか修正。
日記代わりで残さなくともよいと思った記事や、仕事の愚痴で自分の心のうちに留めておくべきと思った記事をカット。
身元が分からないように曖昧にしていた箇所も面倒なので統一。
とはいえ、匿名だし、私が「本当は」何者かはわからないだろう。
以前に読んだ本で黒沢先生のSVが大変に印象に残り、別のSVもぜひ読みたいと入手。
<備忘録>
質問すること自体に負の側面がある。
関係が支配的になったり、患者さんが考えるのを邪魔するかもしれない(p22)
肯定的な質問をすることが「否定的情報は必要がない」というメッセージを伝えてしまう危険性(同)
ミラクル・クエスチョンは、患者さんを戸惑わせ混乱させるリスクがある(p23)
そもそもこの質問は、大きなエネルギーがいる酷なもの(p24、28)
疑問文は問う/問われるという関係を作る(神田橋1984)
「~を聞かせてください」と依頼の形にする、「~はどうなんだろうと思って聞いていました」と質問する工夫がいる(p27)
(以上、遠山宣哉先生の項)
「自信が無い」という人のほとんどが、自分の短所と他人の長所を比べている(p31)
→ これは面白い。患者さんに指摘しても傷つかない内容。
「諦める」人は、何かする以上、相応のものが手に入らなければ意味がないと考えているかもしれない。重要なのは行動(同)
→ 現在は成果主義が当たり前になっている。仕事をしている人に、この発想は響くだろうか?説教くさくないか?
(以上、菅野泰蔵先生の項)
リフレーミングがうまいことは、患者さんのネガティブさを抱えられないバランスの悪さが根底にあるかもしれない(p50)
(花屋道子先生の項)
回避した葛藤は倍になってかえってくる(p123)
(加来洋一先生の項:和田憲明先生からの教え)
黒沢先生のSVから
(治療者が質問で)なるべくディテールや具体例を挙げていく(p154 遠山先生も同様のことを詳説p24)
ただ「頑張ったね」のような抽象的な言い方ではなく、できるだけ細かく証拠を出す(ように促す)(p155)
治療者も患者さんにアセスメントされている(同)
大事なものは患者さんの中から出てくる。しかし、問わなければ出てこない(p160)
→ 当たり前のようで忘れがち。特に後者の文章。
「何でも意識化しない」(中島央先生)
どう質問するかをテクニックでなく、治療者の無意識に任せてもいい時がある(p161)
東豊先生のSVから
早期に(患者・家族関係に関する肯定的)仮説を組み立てる(p188)
その仮説がうまく機能しなければ、すぐに次を探す(p189)
家族に助言するのではない、教えてもらう。
治療者がすることは、家族が歩きやすいように道を少し掃除させてもらうようなこと(p191)
治療者は臆病でよい(同、p157で黒沢先生も同様の指摘)
指導の仕方:面接で相互作用が大事と講義しても仕方ない。SVで母子の(些細な)反応をしつこく尋ねていく(p193)
<読後感想>
ブリーフセラピーは技巧的過ぎるように感じていたが、黒沢先生のSVを拝読して「具体例が出てくるように細やかに質問をし」「肯定的な対応法を患者さんが持ち出すのを待つ」が本質で、技法に比べて発想はとても常識的なのだなと理解できた気がしていた。
本書は、基本的に同じことが書かれていたが、一回だけのSVなので以前に読んだ本ほどの発見は残念ながら無かった。
むしろ、他の先生方の箴言ともいえる指摘が勉強になった。
ミラクル・クエスチョンは、どこかあざとさを感じていたのだが、そのことを学派の方々も自覚なさっているようで、ブリーフセラピー学派の柔軟性を感じた。
またリフレーミングが上手いことは患者さんのネガティブさから目を逸らしてるのかもしれないという指摘は目から鱗。
若い頃はXX療法を勉強するぞと力んでいたが、最近は薬でも、面接技術でも、福祉制度でも、何かにこだわる必要はない、患者さんが落ち着けばよいと考えるようになった。
逆に言えば、薬は使わずになどと言っていては落ち着くべき人が落ち着かない。
前の上司がおっしゃっていた「百万言費やすより一粒の薬」という意見も、場合によってはその通りだが、全てに当てはまるわけではないと思う。
中庸で常識的な、せめて害にならない介入をする工夫を考えたい。
日本ブリーフサイコセラピー学会編「臨床力アップのコツ ブリーフセラピーの発想」 遠見書房、東京、2022