つづき。
第五節
音階練習が大事と繰り返される。
ハ長調と、特にト長調を三回練習させられる(p86)。
フランス語でト長調はsol majeur、ハ長調はdo majeurです。
精神分析は言葉遊びのようなことをします。
言葉の音の連想、つながりから、何か意味が紡ぎだされるという考え方。
majeurはma jouerと発音が似ています。
maは女性形の所有格。主語にあたる名詞がないけど文にすると「私の?が遊ぶ」。
そしてそれはsol (sole 発音は同じ)「一人」なわけです。
<一人で、私の?が遊ぶ>
さらにdoはdeuxかもしれません。この場合は<二人で、私の?が遊ぶ>ですね。
遊ぶは、享楽するとしてもいい。
第六節
子供にピアノを「二年前から」習わせているけれど「まだ早い」とも思う主人公(「10年前に結婚した」と主人公は言っていますのでp50、8歳くらいの思春期前から音楽を習っている)(p99)。
子供の演奏の上達を自慢する主人公。
男は胸のマグノリアの話をする。マグノリアは「屈むと、胸のふくらみに軽く触れる」(p100)。
それを受けて、主人公は、夏の夜に家の近くを歩く男たちを眺めていたと語りだす(p102)。
そして主人公は、「(殺した男は相手の女性の気持ちを理解したのに)なぜ(略)もっと遅く(略)あるいはもっと早い時期に、実行に移さなかったのか」と疑問を感じる(p106)。
男は「殺された女性は男の言いなりだった」と語ると、主人公は「犬のよう」と答える(p109-110)。
帰り道、子供が「夜は家が遠くなるね」と主人公に話しかける(p113)。
本作で「普通」(p80など)と訳されるmoderatoですが、本来のニュアンスは「早すぎず、遅すぎず」です。
女性が己の欲望に気づくと男は適当なタイミングで動けるのか。
女性が己の欲望に気づく前と後に行っていたことは何か。
そして、女性が己の欲望に気づき始めると「家は遠くなる」。
第七節
鮭と鴨が出された饗宴。
女性たちは「厳格な教育」通り社交をする(p119-120)。
満足そうに眺める夫たち(p120)。
マグノリアを身につけた主人公は嘔吐してしまう(p129)。
鮭はフランス語でsaumon、鴨はcanardだそうです。
言葉遊びです。
sau-monを逆にすると、mon saut「私の跳躍」。
canardはcanal(rとlは全然違うけど)。
「裂け目」を「跳び越す」。
主人公は「今まで呑み込んだもの」を「戻す」。
裂け目を思い切って飛び越すことと、我慢して飲み込んできたものを吐き出すことが、同じということかもしれない。
第八節
初めて一人で対話に訪れる主人公(p133)。
息子のピアノレッスンは他人に任せることにしたと話します(p134)。
急に怯えはじめる主人公(p141-143)。
ラスト。
「あなたは死んだ方がよかったんだ」という男。
「もう死んでいるわ」と答える主人公。
男の台詞ですが、原語を入手できず、検索で出てきたスペイン語版をGoogle翻訳してもらうと、J'aimerais qu'elle soit morteでした。
条件法現在で、直訳だと「彼女(tuでもvousでもない)は死んでいるほうがよい」
一方、主人公は、C'est (un?) faitと答えているらしく、直訳なら「それは事実だ(そうなっている)」です。
私の妄想のまとめ。
女性たちは「子どものような」男たちを喜ばせることを己の喜びとしている。
一方、冒頭に登場する女性は<男に自分を殺させた>。
男から永遠に離れることを選び、男に喜びではなく苦痛を与えた。
殺された彼女が選んだのは、男を喜ばせることではなく、己の喜びのままに生きることだった。
そして主人公が気付いていない欲望も、子育てやそつなく社交をこなすことではない。
性衝動に従って生きる。
「音楽」のような。リズムと、歌のような悦びの声、叫び声さえ混じるような。
常識的に生きることを「生きる」とするなら、常識から離脱して自身の欲望に従うことは「死ぬ」ともいえる。
そして男=分析家は、彼女elle(=主人公でもあり、匿名の女性かもしれない)が「死んだほうがよかった」ではなく「死んでいる方がよい」と言っている。
私が原文を探したのは、時制を正確に知りたかったからです。
過去形ではない。
まだ間に合う。
主人公は「子どものような男」から離れて「一人で」、「死を選ぶ」と宣言し、この作品は幕を閉じる。
なんと全編見れます。
イタリア語が分かる方、どうぞ。
さて、私の別の妄想・・・・
まだしつこく続く