自由奔放に過ごした祖母(戦中世代)。
フェミニストで学者の母親(学生運動世代)。
人道支援で不在がちな医師の実父。憲法学者の継父。
政治問題を議論し、自由に発言し行動することが許され、同級生に羨ましがられる家庭(p36-38、68-71、73-74)。
そこで起きた痛ましい事件。
前半に描かれる団欒。
自由なようだが、私には無秩序にしかみえない(p43-44、72-73、75、118、127-128・・・特に性的自由は度が過ぎる)。
道徳や伝統への抵抗は、時間をかけて考え抜かないと、反転させるという手間をかけただけで、隷従と双子になる。
対独協力した著者の祖父を、著者の母親は自分の母(著者の祖母)と共に蛇蝎の如く嫌い、孤独に追いやる(p39-44)。
祖父は自殺(p92)。
占領下という時代的制約の中で、彼はなぜそのような選択をしたのか。
フェミニズムが得意な「制約下で生きる」ことについて、著者の母親は自分の父と十分に論じたのだろうか。
母親は、自分にとっての理想像だった母が自殺後、哀しみから抜けられなくなる。
酒に向かい、仕事に没頭し、娘(著者)はほぼ放置(p110,117、131、151)。
家族(制度)から逃れろ(p39)と言った張本人が、自分の親子関係の濃厚さから抜け切れていなかったことは仕方ないとする。
しかし、女性、母娘、父娘について「考える」職業だったなら、哀しみながらでもいいから、母と自分と娘の関係について「考える」ことはできなかったのか。
アルコールや仕事(だけ)に耽溺するのではなく。
子は親の愛を欲し、認めてもらいたい。
だからこそ、明かせば家族関係が壊れるかもしれない「何か」を、著者は母親に隠匿せざるをえなかった(p133、173、177、205、225)。
そして、それは著者を苦しませ続けることになる。
この種の悲劇を生まないため家族制度を壊した方がいいという議論に、私は加担しない。
人間は生物学的に、保護を必要とする期間が他の動物種より長い。
血の繋がりと関係なく子は保護者(的存在)と一定期間濃密な、しかし非性的な関係を形成する必要があり、そのような集団のありようは、もはや家族だからだ。
一方、母親は事実を知った後も沈黙する。
「母親が悪い」などという単純な話をしたいのではない。
母親の元パートナーを含めた周囲の大人たちは何をしていたのか。
当時の価値観の混乱などを差し引いても。
頭で考えるだけでなく事実を見ることができたならば、あの出来事も、著者である娘の傷つきも(出来事に目がいきがちだが、彼女がそれ以外のことで傷ついていることが語られており痛ましい)、避けられたのではないか。
加害者であり被害者という板挟みの立場で苦しんだ著者の以下の言葉は、母親や当時の大人たちに向けられた悲鳴なのだろう。
「言葉を発するのは他人をよりよく理解するためではないのか」(p94)
ところで偉そうに書いている私自身はどうだろうか。
私は自分の子供達を、しっかりと「見る」ことができているだろうか。
そして、虐待当事者同士以外の家族構成員も、傷を負うこと。
盲点だった。
カミーユ・クシュネル「ファミリア・グランデ」 土居佳代子訳
柏書房
2200円+税
ISBN 978-4-7601-5441-8