著者の小松原先生が当事者なのだが、どのような当時者であるかは調べていただければわかるので、ここでは触れない。
小松原先生の研究手法は↑
本書では支援者への失望、そして強烈な怒りが語られる。
そのことと表裏だと思うが、自身の体験に言葉が追いつかない焦燥も語られる(p96、110)。
あまりに衝撃的な出来事に出会うと、人はいわゆる「言葉を失う」。
言葉はそんなに繊細にできていない。雑なものだ。
これはメンタルヘルス界隈にいるものには共有されていると思う(のだが違うのかもしれない)。
本書に引用されているデリダの証言論(「滞留」p195-196)は、モーリス・ブランショの「私の死の瞬間」にインスパイアされて書かれた。
ブランショが、銃殺されるまさにその時に命を救われるという体験の中で感じた、言葉にならない何かが描かれている。
小松原先生が受診なさった精神科医の態度。
支援者がこのような態度をとり勝ち(本書のあちこちにある。たとえばp71-72、99)な機序を、実は小松原先生自身が疑似的に体験なさっている。
水俣病研究の最中、ご自身に分かるところだけ当事者の声として取り上げているようなご自分の傲慢さを感知し、おそらく嫌悪感から「あの声は聞かなかったことにしよう」と考える(p143-144)。
ご自分の考えをきちんと言葉になさっている点で精神科医と比べものにならないが、要は「聞くことに耐えられない」ので「聞かなかったことにする」。
あの精神科医は小松原先生の体験を真正面から受け止めることから逃げた。
なぜなら、体験の強度に耐えられなかったから。
「よくあること」「忘れなさい」(p46)という雑で出来合いの言葉を使って、「よくあることではない」「忘れることのできない」ことの共有から逃げた。
ある精神科医たちへの失望(p64-65、78-85)。
これは理論という平板な語りに回収されることへの怒り。
至極もっともな批判である。
ただ、少し誤解があるように思う。
私が代表になっても仕方ないし、そんな能力もないが、少しだけ言い訳。
治療者の著作は、治療者に向けて書かれている。
つまり治療者文化の暗黙の何かが前提になる。
だから、そのような著作を実践者でない方がお読みになると誤解が生じがちになる(だから読むなということではない)。
あそこに書かれていることは、治療者主導で安易に赦しを扱ってはならないという警告であろう。
だから当事者に禁じているのではない。
当事者が赦しの問題を持ち出せば、もちろん一緒に考えることになると思う(その問題を考えることで余計に辛くなるかもしれない、程度の助言はするだろうが)。
以上から、小松原先生の「『赦し』を禁句にされる」(p65)は誤解と考える。
またセンスのいい方は理論などいらないとおっしゃるかもしれない。
しかし、私のような凡人には理論という地図が必要。
地図ばかり見ても迷子になるが、地図なしでも迷子になる。
宿題。
病の当事者が社会とのありようを研究する「当事者研究」というものがある。
正直、この言葉に違和感を抱いていた。
ただ、それを言語化できないでいた(言語化を禁じられている気もする)。
小松原先生は以下のように批判なさっていた。
当事者研究の結果とされる「個人レベルでの処世術」(!)は「生き延びるための技法」に過ぎず「普遍的な知」を求める「研究」の名に値しないのではないか(p92)。
すっきりしない。
個別性と普遍性の問題だけではないと思う。
支援、ケア、治療、対処行動、処世術などの言葉が緻密に分けられていないことに起因している気がするが・・・まだ分からない。
もう一つ。
私が「私の生」を生きることと、症状が「私の症状」であること。
これらの「私の」をどう扱うか(p55-58)。
私用のメモ。
期待。
デリダのあの不可能ともいえる赦し論(p35-37,86-88)を小松原先生はどのように展開なさるのだろうか(第八章あたりで少し広がっているように思う)。
もう一つは「回復に回収されない物語」をどのように提示なさるのか。
私もぜひ知りたい。
本書はその内容から誤解されがちだと思うが、当事者研究が、普遍的知を目指すという本来の意味で研究たりえるのか、その問いに苦闘しながら研究者としての第一歩を歩み出した方の自叙伝であり、研究者になりたいとお考えの大学生や大学院生さんこそ読むべき本だと思う。
リーダビリティーが高くあっという間に読み終わったが、何度か読み直したい。
小松原織香「当事者は嘘をつく」
1800円+税
筑摩書房
ISBN 978-4-480-84323-4