面白かった「ナナ」
若いころのバカな私なら、退廃的エログロ小説か!くらいの感想だったと思います(SM、同性愛、汚れ物へのフェティッシュさえあり)。
当然、そんな小説ではないです。
第1章。
女優という体で春をひさぐ女性たちと汚く不潔な舞台裏。
仲介する男性や女性がうろうろし、興行主も実態を隠そうともしない。
田舎貴族さん、この身も蓋もない爛れた様子に戸惑っている(p39)。
ちなみこの田舎貴族さん。
物語後半で愛人を見つけて都会人を気取っているのですが、ある女性の良からぬ噂話をよりによってその愛人男性に話すという変わらぬ田舎者ぶりが笑わせます(ゾラの意地の悪さ! p492-493)。
ナナの風貌は読んでいただくとして(p35-36)、「居酒屋」で15歳だったナナは本作で18歳。
ナナの並外れた自己愛とその描写は視覚的自慰(?)のようで妖艶です(p260-263)。
最初はほぼ街娼に近かったのが(第4章)、華々しい舞台デビューで信仰篤く妻以外の女性を知らないミュファ伯爵を取り込むことに成功(第5章)。
第6章ではある金持ち男に囲われ、自然豊かなある地方の別荘を手に入れることに。
ナナはまるで15歳(p221)の少女のようにはしゃぎ、憂い、自然を満喫する。
とはいえ、彼女を慕うブルジョワ青年に女装させたりしていますが(p209-214)。
重要なのは、かつて高級娼婦だった老婦人の品格ある姿と、地元民に敬意を払われている様に感嘆し、以後ナナの頭から離れなくなるというエピソードです(p238-241)。
さびれゆくパサージュ描写が美しい第7章を経て、第8章はパリに戻ったナナが貧乏男優と質素な生活を始めたことが描かれます。
「お金で本当の幸せは得られない」(! p290-291)
公現日から始まるのでガレット・デ・ロワが出てきます。お馴染みのフェーブの話も(p294 ちなみにルラ夫人が当てます)。
ケーキの中にある小物がフェーブ。私も一時期趣味で集めていました。
しかし、この生活、お母さんと同じようなDV生活に(p298-)。
お?さては「居酒屋」と同じ物語構造かと思いきや・・・・・
・・・・第9章、ナナは電撃復活。そのまま第10章冒頭、「こうしてナナは垢ぬけて(略)高級娼婦となった」(p376)
素早い展開。かっこいいです、ゾラ。
第11章ではナナがあたかもパリで天下をとったようなエピソードがあり、ちょっとしたアクシデントの後、いよいよ最終章へ。
本書の面白さはここからです。わずか80頁だけど。
ナナは、ヨーロッパの資本家、大臣たち、大使館員たちを征服し(p530-531)、ブルジョワ青年、革命貴族、兵士、銀行家、地方貴族、ジャーナリスト、宮廷付き廷吏たちを身ぐるみはがしていく(p533-)。
彼らの没落はわずかな文章で次々と紹介されるだけ。
リアリティーはなく、ほぼ寓話のようです。
ゾラもたぶんそのつもりではないかと。
浪費で見かけは華美なナナの家は崩壊へ。そして美しいだけの建築物が増え、代わりに何かが消えゆくパリ(p553)。
ナナは第二帝政パリ、フランスそのものなわけです(解説p588)。
第14章。
ナナは天然痘で死の淵にいます。怯えて近づけない男たち。
感染を恐れずに看病する女たち。
普段、罵倒しあっている女性たちが、実は互助的に生きていたことが示唆されているように思います。
ホテルの一室に12人集まる。最後の晩餐のように。
外は普仏戦争開戦で騒然としている。
そして全員が、逃げるか戦うべきか、どうやって混乱の中、生きていくか、どの政体を選ぶべきかなどを語り合う(p576-579)。
賢明にして真摯な女性たち。
普仏戦争開戦の日、物語は幕を閉じます。
面白かった!
読了するとナナはあらゆる階層の男を憎んでいることが分かります(p41、233、257、266-268、283、295、325、326、380、386、435、532-533、540)。
ナナにある感情はその場しのぎの同情だけ(p46、64、208、257、264、317、331,334、381、412、502、519)。
少し略しますが
「あなたたちが身勝手でなければ、私たちと同じように奥さんにも優しくするはずだわ。奥さんだってあなたたちのために私たちと同じくらい努力するでしょうよ」(p268)
「金持ちの男たちは金さえ出せば何でもできると思っている」(p358)
「結婚なんかしたくない。男を背負い込むのは不潔」(p539)
「彼らをけしかけたのは私?私にしてみれば、やりきれなかった、怖かったし。社会の仕組みが悪いのよ。要求するのは男たちなのに責めを負うのは女たち。セックスもわずらわしいだけ」(p556)
ゾラの一文
「貧乏人や見捨てられた人々といった自分の世界のために(ナナは)復讐を果たしたのだ」(p559)
本作、男たちに利用されるだけ利用された女性たちの怨嗟の声に満ちた話とも読める。
男社会に性的退廃を持ち込むことで、あらゆる階層を破壊しつくし復讐した一人の女性の高笑いとも。
ひねったフェミニズム文学と言えないでしょうか(などといったら怒られるか?)。
落ち葉拾い
ナナが鳥肉を食べないとわざわざ描れます(p50)。
「居酒屋」のジェルヴェーズの誕生会で鶏肉が出ていますが、そのことと関係?
あとルラ夫人(第2章、第11章)やボッシュ夫人も(p403)再登場。
男がナナのことを待っていると猫が現れます。
黒猫(p162 「尻尾を立てて」いたりします!おお!汚らわしい! p192)や赤い猫(p353)。
フランスでも猫は性の暗喩だそうです(吉田 2017 https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/19773/2014101613412590031/ELLF_24_572.pdf)。
あと19世紀末に天然痘で死ぬって、え?と思ったのですが、原語を知って納得。
天然痘と邦訳されていますが原文はverole。
これpeititeがつけば天然痘ですが、grandeがつけば梅毒だそうです(手元のCrown辞書から)
ゾラはどっちのつもりだったのでしょう。
(追記:経過を考えるとやはり天然痘なのでしょう。でもゾラがうまいのがveroleが梅毒を想起させるということです。結核で死去でも良かったわけですから)
欲望について。
本書を読んで思ったのが、欲望は要は「もっと」「より」という比較級というただの言葉を欲することではないかと。
言葉で実体がないから満足できない。
そして19世紀の都市部資本主義は、この空な「より」「もっと」を生み出すことが産業になった。
一方、自然の中には空な「より」「もっと」はない。端的にそこに「あるべきものがある」だけで、欲望は喚起されないのではないか。
唐突な第6章でゾラが主張したかったのは、そういうことかなと。
女男のすれ違い。
ナナ(女たち)が求めているのは敬意です(p318、380、516)。
母役をすること(p282、518)、妙なタイミングに「代金」を払ってもらう(p283)ことではない。
それは「私を馬鹿にする」ことと同じと。
ナナにとって性的身体は「好きなように使いたい」ものに過ぎない(p471)ので、それを手段として得られたものなど、空虚で倦怠に満ちた(p395)、退屈(p533)なものでしかない。
なんだったら壊してもいい(p507-510)。
一方、ナナに群がる男たちは、おそらく自分の弱さを受け入れてくれること(p282、437、470、475)を求めている。
そしてその代償は性的能力(ナナにとっては無価値)、または金(「より」を得る手段でしかなく無価値)を与えることだと思っている。
でも、敬意を払うことは、何かを与えることではない。
何かを与えることは、必要な何かが欠けた存在と相手のことを考えていることと等価だからです。
金を与えてもナナが不機嫌な理由を男たちは分からず、ナナは金をもらっても無意識のうちに無価値だと思っているので蕩尽し、不機嫌さを治してもらうために男たちはより多くの金を与え続ける。
本書が面白いのが、第6章から第8章でナナは自分の本来の欲望に少し気づいている、しかし残念なことに言語化できていないし、言語化を促してくれる人もいなかった。
そして周りのぼんくら達は、彼女に尊厳の代わりに金を払い続けることしかしない。
気になったのが宗教観。
信仰の鬼、ミュファ伯爵。
ナナのことを思い出すことは「オルガンと堤香炉」で「陶然となる」ことと同じで(p542)、信仰も「ナナとの快楽の宗教的延長だった」(p551)。
そういうことを書くかなあ、ゾラさん・・・・・
ゾラ、徹底的な理性主義者なのでしょう。
いつも、微笑みながら、ミュファに影のように付き添うヴノー。
この人、ゾラの考える「神」ではないでしょうか。
見ているだけで、なーんにもしないんですよね。
ゾラ「ナナ」 小田光雄訳
4800円+税
論創社
ISBN 4-8460-0450-3
Zolla E: Nana 1880