いわずとしれたサン=テグジュペリの伝記小説と、彼の有名な大人のための童話です。
まず、佐藤賢一さんの「最終飛行」から。
佐藤さんの小説や新書は何冊か読んでいますが、どれも無茶苦茶面白い。
本書で個人的に面白かったのが、当時のフランスの勢力分布。
1940年5月、ナチスにフランスは蹂躙され、北は占領、南はヴィシー傀儡政府、イギリスに逃げたドゥ=ゴールによる自由フランスに分かれた。
ここまでは良く知られていますが、なんと、まだあった。
フランス植民地だった北アフリカにフランス軍が存在していた(!)。
戦場になったのはフランス本国だけだったから、アルジェリアなどに駐留していたフランス軍は無傷のままだったのですね。
考えてみれば、なるほどです。
さらに多くのフランス人(だいたい金持ち)が亡命、特にアメリカにいて、これまたあれこれ活動していたらしい。
つまり5つに分裂。
なので
北=完全にドイツに屈服
南=ドイツに屈服していない体で、でも抵抗もしない
自由フランス(ドゥ=ゴール)=ほぼ口だけ(ろくに部隊がないので宣伝活動ばかり)
北アフリカ残存兵力=指揮系統が混乱し動けない
亡命組=完全に口だけ(戦う気がこれっぽちも無い)
になっていた。
一方、母国のために戦いたいと思っていたサン=テグジュペリは、残留フランス軍が動くのを期待していた。
で、国民感情的に参戦する気の無かったアメリカ(ルーズベルトの塩対応ぶりが映画「チャーチル」で描かれていました)を、なんとか巻き込みたいと渡米したサン=テグジュペリ。
しかし、派閥や政治の噂話ばかりを好み自分から行動しようとしない亡命フランス人社会の中で、孤独感と怒り、焦りと失望感を味わっていく・・・・そして、この渡米中に書かれたのが、あの「星の王子さま」だった。
知りませんでした。
そう思うと、内容に対する解釈ががらっと変わりませんか?
「星の王子さま」冒頭の<蛇に飲み込まれる獣>は、ナチスに併合されたフランスかもしれない。
3本の<バオバブの木>は3つの枢軸国。
<羊>はフランスかもしれない(佐藤さんはアメリカだろうとインタビューでおっしゃっていますが、そうすると4匹の意味がわからない)。
「死にそう」な羊は北部。
「雄羊」は威勢だけいい自由フランス。
「年を取りすぎ」な羊は、年寄ばかりで気概のないヴィシー政権。
そして「箱」の中の見えない<本当の羊>が残留フランス軍とサン=テグジュペリ。
あの<薔薇>は奥さんのコンスロエらしいというのは、佐藤さんによれば定番の解釈だそうです。
「最終飛行」でも、コンスロエの描写で薔薇の比喩が多様されています。
本書は佐藤節全開の歴史的事実の詳細な記述に加えて、サン=テグジュペリの魅力がしっかりと描かれていました。
表面的には人懐っこい。
しかし、世辞長けた会話はできても、自身の考えをしっかりと言語化できない幼児性(思想をすらすら話せる人は小説なんぞ書かず政治家になるのではないでしょうか)を持つ。
そして本質的に他人を信用できない強烈な孤独感を抱えている、そういう人物像が浮かび上がる素晴らしい小説でした。
さて、以上から、おおっと面白そうと再読した「星の王子さま」。
タイトルの「甘ったるさ」(野崎訳 解説p152)で、私はこの本をしっかりと読んでいませんでした(岩波少年少女文庫辺りで読んでいるはずだけど記憶にないっす)。
野崎先生訳では、従来の、素晴らしいけれども意訳だった題名を本来の意味に戻すべきと考え、 Le petit Princeの直訳「ちいさな王子」に変えています。
この解説で納得して野崎訳を読み始めたのですが・・・・残念なのが本文です。
「~なのさ」とか「~なんだ」といった<甘い>口語文体で、せっかくの野崎先生の意図が本文で裏切られているように思います。
一方、大昔に買った(けど読んだ記憶がない)本棚にあった倉橋由美子訳(宝島社)。
倉橋さんは原文が「理屈っぽい硬質な文章」なので(p154)、文体に注意するべきだと書いていらっしゃいます。
そしてこちらの訳が、断然、読みやすかったです。
「最終飛行」読了後に読んで、バオバブや羊はなるほどこういう意味かと分かったのは倉橋訳の方でした。
細かいのですが訳を比べます(以下野崎訳=N、倉橋訳=K)
まず前書きの前半。
N:この本をおとなに捧げてしまったことを、こどもたちにあやまらなければならない。それには重大なわけがある。つまり、そのおとなはぼくにとってこの世でいちばんの親友なんだ。それから、もう一つの理由。そのおとなは何でもわかる人で、こどものための本だってわかるのさ。三つ目の理由。そのおとなはフランスにいて、いま飢えと寒さんに苦しんでいる。とてもなぐさめを必要としているんだ。
K:子供達には悪いけれども、この本はある大人に捧げたいと思う。それにはちゃんとした理由がある。その大人というのは、私にとってかけがえのない親友なのだ。ほかにも理由がある。この人は、子供のための本でも何でも分かってくれる人だ。三つ目の理由。その人は今フランスに住んでいて、飢えと寒さの中で慰めを必要としている。
野崎訳はまず口語文なのが、やっぱり恥ずかしい。
それから野崎先生が解説に書かれている、題名の小さいpetitは大きいgrand人=大人と対照にしている(p152)というお考えに反して本文では「おとな」表記で、「大人」としていない。
原文だと確かにgrande personneかgrandes personnesで、adulteではないです。
あと、野崎訳の「おとなに捧げた」だと大人一般に捧げられたようで(その後は「そのおとな」にしていますが)、倉橋訳の「ある大人」の方が文意に沿っている。
それと野崎訳の「重大なわけ」「もう一つの理由」「三つ目の理由」も座りが悪い。
原文は「J’ai une excuse sérieuse・・・J’ai une autre excuse・・・ J’ai une troisième excuse」でexcuseを繰り返しています。
倉橋訳は「ちゃんとした理由」「ほかにも理由」「三つ目の理由」と「理由」を繰り返している上に、une autreのuneを落として「ほかにも」だけにし、実際は<二つ目>なのに<もう一つ>という数がずれるややこしい文章になっていません。
ほかの箇所
N:天文学者はもう一度(略)とてもおしゃれな身なりで発表しなおした。(p24)
K:天文学者は(略)しゃれたスーツを着て発表をやりなおした。(p24)
野崎訳だと着飾ったみたいですが、サン=テグジュペリの絵では倉橋訳が正確で、かつ民族衣装ではないことに意味があると思うので、倉橋訳に軍配があがるかと・・・(下図)。
倉橋先生があとがきにお書きになっている箇所。
N:「きみとはあそべないな」(略)「だってぼく、まだなつかせてもらっていないもの」(p105)
K:「おれはあんたとあそべない。まだ仲良しになっていないからね」(p103)
原文は「Je ne puis pas jouer avec toi(略). Je ne suis pas apprivoisé」
倉橋先生によればapprivoiserは「飼いならす」なので、ここは<従順な愛人のような関係ではない>という文意だろうと指摘なさっています(p156-157)。
手元の辞書にもapprivoiserは「飼いならす」「手なずける」になっています。
なるほどキツネを「飼いならす」=「従順にする」として、ダブルミーニングにしている訳です。
ここ大事な点です。
キツネを通じて(倉橋説では<手なずけた愛人>を通じて)、薔薇への責任(薔薇=コンスロエへの責任)に王子(サン=テグジュペリ自身)は気づくという流れになるからです。
ここは野崎訳に軍配があがりそうですが、この原文のニュアンスは日本語に訳せませんよね・・・
キツネが王子に人間が忘れたものについて言う台詞。
N:「こんな大事なこと」
K:「この真理」
原文のcette véritéという硬い言葉を活かしているのは倉橋訳。
ラストの一段落。
倉橋訳は硬い文章で二人称が「あなた」(p146-147)。野崎訳は口語体で人称は「きみたち」(p146-147)。
原文はVousなので雰囲気は倉橋訳、一方、!などの記号は野崎訳が忠実(倉橋訳は削除)。
個人的に最も重要と思う箇所。王子の薔薇への想い。
N:「お花が何をしてくれたかで判断すべきで、何をいったかなんてどうでもよかったのに」(p49)
K:「彼女の言葉ではなく行動で判断するべきだった」(p48)
原文は「J’aurais dû la juger sur les actes et non sur les mots.」で倉橋訳は完全に直訳ですが、野崎訳は・・・。
les actesというシンプルな語に、薔薇が王子に<何かしてくれた>かどうかは含意されません。
むしろ<何もしてくれなかった>のかもしれない。
怒ってすぐに帰っちゃうとか(コンスロエのこと)。
怒って夜中に別の男と遊びに行っちゃうとか(コンスロエのこと)。
怒ってずーっと無視するとか(コンスロエのこと)。
倉橋先生の言葉です。
「この小説は(略)四十を過ぎた男が書いた大人のための小説です。これを読んで大量の涙が出てくるというのはちょっと変わった読み方(略)」
・・・・・・
・・・あの、えーっと、倉橋先生の御意見ですからね。
私の意見ではないですからね。
私だって感動しましたからね。
泣かなかったけど。
佐藤賢一「最終飛行」
2420円(税込み)
文藝春秋社
ISBN 978-4-16-391372-8
「ちいさな王子」 野崎歓訳
552円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN 978-4-334-75103-6
「新訳 星の王子さま」 倉橋由美子訳
1500円+税
宝島社
ISBN 4-7966-4695-7