仕事が思いのほか早く終わった時、車内でラジオを聴いて知った本書。

 そのまま本屋に直行。

 

 いろいろ学びました。

 

 

  私はマンガ・リテラシーが低いので頭に入りにくかったのですが、それだけでなく考えさせられる内容で、読み終わるのに時間がかかりました。

 本書はジェンダーに関する本として売られていますが、よくよく読むと本当にそうだろうか(それだけだろうか)という気持ちになります。

 

 

 なるべく内容は書きませんが、若干ネタバレ気味です。

 なので、未読の方、以下はスルーでどうぞ。

 

 

 

 上巻。

 前半は主にペス山さんが受けたセクハラ被害について。

 特にp28-39あたりは洒落になりません(相手は不快感を超えて恐怖感をペス山さんに与えており、もはや犯罪ではないのか?)。

 

 ただ色々とピンと来るのに時間を要したのですが、理由の一つにペス山さんがご自分は「生物学的に女性」だけれどまだ「分からない」、敢えていえば「男性寄り」とお描きになっていたことがあります(上p8)。

 なので、<女性へのセクハラ>という形をとった嫌がらせが、ペス山さんにとってどのように苦痛で何にお怒りなのかが、最初、分かりにくかったのです。

 いろいろ考えると、おそらく5つが混じり合っている。

 

 女性という意識はないけれども、女性性が全く無いわけではないであろう(誰でも自分の性でない要素を持つと思います)ペス山さんにとって、不本意な性的接近に対する不快さ。

 言葉ではなく、いきなり行動で、しかも身体的接触で示される、度を越えた(性的)好意表現への嫌悪感。

 (性的)好意を示す行動が、権力関係下で行われる恐怖感。

 ペス山さんの個性に関連する(そのため理解が難しい)、自分の性を否定された(女性扱いされた)という屈辱感。

 そして<自分>ではなく自分の<身体>に性的好意が向けられたことへの嫌悪と屈辱感(上p55、138)。

 

 最後の点、ペス山さんがご自分の身体に違和感があるがゆえに明確になり、私的には<なるほど、これがセクハラの本質なのかもしれない>と思わされました。

 

 特に相手が見知らぬ他者だった場合、相手にとって自分もその身体も匿名で、いわば誰でもない身体です。

 それが性的対象になるということは、要は相手にとって身体以外は誰でもいい。

 確かにこれ、自分を蹂躙された感覚になりますね。

 

 てか、それくらい分かれよと言われそうですが、正直に申し上げます、すいません、セクハラは相手を不愉快にするで思考停止しており、具体的感覚としてどのような気持ちになるのか分かっておりませんでした・・・・

 

 

 また他にもペス山さんだからこその苦しみが描かれ、それで理解が追いつかなくなっていました。

 たとえば、ペス山さんが見せる他者への男/女らしさへのこだわり(上p61、178)。

 ご自分の、ではないです。

 これはあくまで想像ですが、ご自身の性が空白だからこそ、相手から受ける無理解の理由を<らしさ>に求めることで納得しやすくなるということなのでしょうか。

 

 

 一方でなるほどと思い、私自身もそうだなと共感したこと。

 感情を言葉にすることと感情を扱うことは別だということです。

 というのも、ペス山さんは「怒り」を自覚されていて言語化もできている(p15、45-47、184-188)。

 しかし、それが解決にならない。

 そのうち、ペス山さんは様々な症状に苦しめられるようになる(p48、58-63)。

 ちなみに精神科はあてにならない(p65)。

 

 

 

 下巻。

 セクハラをした相手とSNS上で言葉の応酬(下~p25)。

 男性の返事はいつの間にか自分語りになり、当時と今の自分を区別し、当時の自分を批判するという形の反省をする。

 ペス山さんの相手男性に対する結論は、ハンナ・アーレントがアイヒマンに対して投げつけた言葉と同じです(下p24)。

 

 読んでいて印象に残ったのがペス山さんの高校時代からの友人ゼラチンさん。

 このエピソード、一つ一つがぞっとします(下p51-53、56、58-60、62)。

 とにかく男の行動が気持ち悪い。

 しかし、もっとぞっとして落ち着かない気持ちになったのが、数年後の彼女がそのことを「何とも思わない」と言ったこと(p71-72)。

 この件、彼女の職業選択も含め、私も担当編集者さんと同意見です(下p73、76-77、79)。

 ただ、このことをペス山さんも編集者さんも「それでもいいですよね」と結論する(下p82)。

 私的には、メンタルヘルスに関わる者なら、このお二人の爪の垢を煎じて飲まなきゃいかんのではと思ったりします。

 

 

 さて、その後にペス山さんはカウンセリングを受けることに(下p86-119)。

 で、どうなるかは、本書をどうぞ。

 

 

 

 

 最後に、この本がジェンダー問題だけを扱っているのではないだろうと思った理由を。

 

 まず、ペス山さん、ご自分が「男寄り」と思っていたけど、だんだん分からなくなってきたとおっしゃっている(上p84)。

 この件、お母さまとの関係が影響していそう(上p88、98、122、153)ですが下衆の勘繰りはやめます。

 結局、本書でジェンダーの問題は未解決です。

 でも、これでいいと思います。

 じっくり時間をかけて考えていくべきだと思うので。

 

 それから本書執筆の理由が「自分の体への憎しみを取りたい」と、もう一つ「人間関係をうまくしたい」であること(上p67)。

 身体の性と性意識がずれると人間関係が<狭く>なるのはわかりますが、<うまくいかない>のは分からなくはないものの、今一つ得心がいきませんでした。

 

 で、カウンセリングを受けて自分の身体を受け入れた(ペス山さんの表現なら「許す」)後の変化。

 

 まず他人に対してどうしても道化的に接していた(上p57)ペス山さん、それをしなくなった(下136)。

 

 のみならず、本当に言いたいことを一拍おいてきちんと主張できるようになった(下p131、134-135)。

 

 

 これらはジェンダー<だけ>の問題ではないと思います。

 端的に、「自分はこのままでいいのだ」と考えられるか、だと思います。

 もちろん、ご自分の生物学的性への迷いで問題が一見複雑になっていますが、もし「私はこの私のままでいいのだ」と思うことができていれば、人に嫌われないために道化的に振舞う必要も、相手の意向や場の空気を読んで本音を押し殺す必要もないのですから。

 

 

 

 見事です、ペス山さん。

 

 私は「自分の性を受け入れている」ただの中年男ですが、ペス山さんのよう「自分自身を受け入れる」ことはできていません。 

 ペス山さんがかつてなさっていたことを、いい歳してもまだやっている。

 一方で、ペス山さんはご自身の苦痛から目をそらさずに、ちゃんと前進なさっている。

 

 読み終わっての気持ちは、敬意です。

 

 

 

 ジェンダーという点で私が興味深かったのが、自分の性を適切に扱うことの難しさ(第7、8話)、あるいは自分の性を受け入れることが<この私>の立ち上がりと等価であること(第9、10話)を、男友達と女友達のエピソードで示されていること。

 少し切なかったのが第7、8話、男女の境目が曖昧だった時の友情が性を意識する年齢で壊れてしまった体験です。

 

 

 いい本だと思いました。  

 思春期に入った子供達に読ませようと画策中です。

 

 

 

 

 

ペス山ポピー「女(じぶん)の体をゆるすまで」上下

各1200円(税込み)

ISBN 978-4-09-861158-4, 978-4-09-861159-1