フロイトは時に、え?というようなことを書くのだが、私にとってその一つが「喪の作業」である。

 (他には症例ドラへの発言。これは良く指摘される転移がどうのという問題以前の次元だと思う)

 

 

 「喪とメランコリー」という有名な論文で大きく取り上げられるが、人を亡くしたりし、その喪失感を抱えた時に人が行う精神的作業のことである。

 

 精神分析の専門用語を使わないでまとめると(なので不正確)、失ってしまったもの―例えば愛する人―への想い、気持ちの強さを、そのもののイメージから引き離そうとするが、普通、人はどうしてもそれに抵抗してしまう。

 そのような葛藤に満ちた作業を、やがて完遂する、つまり喪失の悲しみを処理、整理する作業が「喪の作業」と考えておおよそ間違いないと思う。

 

 私が疑問なのが「喪の作業を完了する」という言葉(岩波書店のフロイト全集に書いてある)である。

 喪の作業は果たして「終わる」のか??

 

 いろいろな論文でも「喪の作業を終えて・・・」などの文章を目にすることがあり、本当か??と思っていた。

 

 人を失った気持ちを<忘れる>ことが喪の作業ではないのはもちろんだが、たとえば人は親しい人を亡くせば、いつも常に悲しいままであり続けるのが普通ではないのか。

 いや、悲しさが<軽くなる>ことだというご意見もあるかもしれないが悲しみが、そもそも<軽くなる>とはどういうことか。

 悲しくなる<頻度>が変わるということだろうか。<泣く時間が短くなる>ということか。あるいは<泣かなくなる>ということか。

 悲しさがそのような定量的な測りで<軽減した>とされる議論が腑に落ちないので、私は悲しいのは悲しいままだとしか言えない。

 きっと、私の感情や感性が粗雑なのだろう。

 

 ある辞典には「葛藤を解決する」と書いてあり、なるほど、喪失したものへのイメージへの想いを引き離さそうとする力と、そこに想いを留まらせようとする力の調停という意味なのかもしれない。

 が、よくよく考えると具体的にどういうことなのか、私にはわからない。

 

 まま、要は私が精神分析の<理論>をきちんと理解できていないだけなのだが。

 

 

 

 

 で、愛する奥様を病気で亡くされた後にミシェル・ドゥギーが執筆した本書である。

 

 

 本書はとても文章が難解で、正直、私にはほとんど分からなかった。

 

 ただハイデガー(と名指されていないが)批判(p115-116)はそうだろうなと思う。

 人は死に<向かって>生きているという思想への違和感。

 

 <ない>ことを言葉にできない(<ない>という言葉は<ある>)、言葉の無力さに対する歯がゆさ(p67、93、109、151)。

 思考は言葉そのものといっていいので、喪失を思考できないことへの歯がゆさ。

 

 宗教的な、あるいはどのような形であれ、死について<解決する>ことは退けられる(p133-137)。

 ただ純粋に、失ったこととその悲しみ一切を忘れまいとする意志だけが、言葉にならない言葉で表現される(p71、98)。

 

 だから、喪失を「受け入れる」というような、一見、分かるようで、やはりよく分からない言葉使いもない。

 

 

 

 

 実は、比較的晩年のフロイトは、ビンスワンガーとの手紙のやり取りで、孫の看病の後に死去した長女に触れ、自分は喪失の悲しみから「一生、回復できないだろう」と書いている(「フロイトへの道」 岩崎学術出版)。

 

 クルト・シュナイダーは、あるテクストに本文とあまり関係ない文脈で、やや唐突に「人を失う悲しみから回復することはできない」という趣旨の文章を書いている。

 

 

 この二人の偉大な臨床家であり人生の先達(両者ともにこれらの文章を書いたのは、今の私の年齢よりも上)の文章を読んで、そうだようなあ、人を失った悲しみが<癒える>とか<整理される>とか、そんなに簡単なものじゃないよなあと思う。

 

 

 ドゥギーの、妻を亡くした悲しみ、それを言語化できない苦しみという、二重の苦悩が記された本書を読んで、その意を強くした。

 

 むしろ帯にあるように<悲しみをいかに守るか>という発想の方が、逆説的だが大事な気がする。

 

 ・・・・あるいは「喪の作業」とはそういう意味なのだろうか??

 

 

 

 

 

ミシェル・ドゥギー「尽き果てることなきものへ 喪をめぐる省察」   梅木達郎訳

1800円+税

松籟社

ISBN 4-87984-213-3

 

Deguy M: A ce qui n'en finit pas, threne. Seuil, Paris, 1995