カウンセリングの巨匠、神田橋先生の治療談義。
完全な備忘録。
とはいえ、内容を書き過ぎると営業妨害になるので、あくまで「私の心の琴線に触れたところ」だけ。
しかも私の言葉に直しているところもあるので、意味が変わってしまっている可能性がある。
自然治癒力は、とりあえず折り合いをつける作業である(p81)。
言葉は自在性・多様性を備えた道具として誕生したが動きを留める作用も持っており、その作用のほうに多く使われるようになったのが不幸の始まり(p127)。
しゃべっている言葉と体が調和していると雰囲気の良さがある(p129)。
体と心が共有できる言葉を使う(p127)。
革新:学習の意欲(p145)。
適応障害は、学習によって得られた新しいパターンが生来のパターンを壊している(p145)。
適応障害とは、適応の失敗というより適応しようとして生体の自助活動が破綻すること(p146)。
抱え:比喩としては、のどかな田舎の自然(p146-147)。
揺さぶり:2つの考えがある(=葛藤)。それに対して「ここに2つの力がせめぎあっているねえ」と言うことが理想的な揺さぶり(p148)。
何か手の打ちようはあるという希望を与えることが大事(p150)。
体と心を分けて指摘する(p151)。
「AとBを選ぶのは難しいよねえ」は抱え。迷いは当然を認める。「AとBがあるけど・・」と選択肢を出すこと自体は揺さぶり。ただし患者さん本人が選択した場合(あるいは選択に治療者が賛成した場合)、選択した人は自己揺さぶりをしている(p152-154)。
自己揺さぶりがまだできないでいる人(迷う自分はダメだになっている人など)には「勇気を出して、どちらかを選んではだめだよ。それぞれに一理あるわけだから。動かずに考えるとは、こういうときのことをいうんだよ」と言う(p154)。
素質を留めてしまったところから始まるのが従来の精神療法。留められてしまった側が素質が認めた部分で、留める側の自分は素質を認めていないようなものなので、自分を大事にするとは留められる側が大事にされることではないか、ということを送り込む(p158-159)。
留めている側を揺さぶる(そちらに働きかけるp160)のではない。留められている側の力を増やすことで、留められている側が留めている側を揺さぶるようにさせる(p159)。
留める自分は<自動化>されている。精神分析のしていることは自動化に気づかせて自動化する前の状態に戻すこと(p161)。
留める自分とは、もともと言葉に由来していたが、本人の内面に近いところに位置し、血肉化して、体か言葉か区別できなくなるくらい身についた癖のこと(p166-167)。
大事なのは「抱える」「揺さぶる」(=すでに本人の中にある)ではなく、「抱えられる」「揺さぶられる」(p164)。
治療効果が表れるのは枝葉のところから。だから効果をまだ実感できていない患者さんに「枝葉のほうがいいほうに向いたら、この治療はいい方向に向かっていると思いながら、やっていくのですよ」と伝える(p174)。
最終目標を聞かれたら「再発しない心身になることだけれど、そこまでいける人は少ないけど、一応、目標としては立てている」という(p174)。
有害の原因を探すと言葉の領域は広い。しかし改善の方策を探すと、言葉の領域は狭い(p182)。
解離は<かなり成功した逃げ>(p219)。
最後に、もっとも頷き、あるフランスの精神分析家も言っていて、神谷先生もおっしゃっていたこと。
<その人の症状の中にその人の長所がある(p214)>
本書では、<揺さぶる>という諸刃の剣となる技術の危険性をいかに軽減し、そして有効性を高めるか、それを学べたような気がした。
神田橋條治、白柳直子「心と身体といのちのこと」
2300円+税
IAP出版
ISBN 978-4-908863-07-3