本作、もし帯のように鉄道ミステリーの先駆と考えるなら、倒叙ものの先駆でもあります。
しかし、やはりミステリーではないでしょう。
主人公の一人はジャック・ランチエ。
ナナのお兄ちゃん。
もう二人が冒頭から登場するルボーさんとその妻セヴリーヌ。
上から2列目の一番右がナナ。その2つ右がジャック。
もう一人、不在(すく殺される)だけど物語を駆動している人物がグランモラン氏。
「犬神家の一族」の佐平翁みたいです。
この人の呪い(?)で物語が動いている、みたいな。
他にもいろんな人殺しが。
ちなみに本作は1889年から執筆が始まったそうで(解説p511)、調べると「切り裂きジャック」がロンドンに現れたのは1888年。
ゾラが主人公の名前を決めたことと関係していないでしょうか。
さて、本書もゾラお得意の遺伝との関係を示唆した容貌描写が詳しい(p9、11、52、54など)。
ただマッカール家はジャックだけなので、今回はゾラが映像的描写を得意としていることの現れなのでしょう。
気になったのジャックの瞳。
わざわざ「金色の斑点がある」(p54)と書いてあります。
調べると、たぶんHaezel eyesのこと(Dorgaleleh S et al.: Molecular and biochemical mechanisms of human iris color: A comprehensive review. J Cell Physiol 2020)。
金(琥珀色)の瞳孔で世界に5%しかいないそうです。
ちなみに欧米では「狼の目」と呼ばれていたらしい。
まさに「獣人」。
そしてこの瞳の描写で、ジャックが遺伝的に稀な体質であることがより強調されます。
この作品の登場人物で、もっとも関心を惹かれたのがセヴリーヌ。
夫の愛情表現に、肉親のようにしか反応しない(p12)。
育ての親のグランモランに見られると「視線が皮膚の下まで」届ているように感じた(p22)。
皮膚の下・・・・?
グランモランからもらった指輪を「うっとり」眺める(p28)。
そして、ルボーさんといろいろあった後、16歳の頃、グランモランに蹂躙されたと、とうとう告白(p28)。
・・・・・・
読み始めて30頁で、あまりに重い・・・・あまりにも重たい・・・。
彼女は指輪をうっとりと眺める一方で、グランモランから「離れたくて」、「愛してもいない」ルボーと結婚した(p38)。
でも、ルボーのことは憎からず思っているし、グランモランとのことは「悔いている」(p39)。
セヴリーヌは鈍感で精神的に幼く描かれている(ようなの)ですが、そうでない読みもできるのではと妄想しました。
というのも・・・・
その後、セヴリーヌはジャックを誘惑することになる(p171,193)。
ところが意図的だったはずのジャックとの絆が強くなり(p196-198)、とうとうセヴリーヌは「はじめて」人を愛する(p231)。
しかし、彼女は彼にどうしても「体をゆるせない」。なぜなら「恋愛がだいなし」になるから。
あの「汚いセックスさえなければ」(p231)。
彼女が鈍感なように見えていたのは、16歳のおぞましい出来事以来、感情を殺して生きてきたということなのかもしれない。
その後の二人が「はじめて」愛情を交歓するシーンや(p239-246、第8章全部)、15歳まで戻ってジャックと生き直したいと願うところ(p361-362)など、本当に切ないです。
ところが、二人とも視野狭窄状態で手段が目的化し、彼女はマクベス夫人のようになっていく(p374-375、446-461 こういうところの不気味さもゾラはうまい!)。
一方、彼女が人の悪意(自分が攻撃されそうな気配)に敏感である描写(p447、457-458)は、16歳の出来事の後遺症のようで胸が痛みます。
ツボだったのは第四章と第五章。
事件は帝政を揺るがす出来事に。
ここで登場するルーアンのドゥニゼ予審判事。
ドゥニゼの、証人たちの発言内容より挙動を観察する仕事ぶり、余計なことは気を利かせて記録しない書記など、彼らの「できる」様子に惚れ惚れします。
そして法務省局長カミー=ラモット。
彼は、片田舎のつまらない事件が、帝政にどのような打撃を与えるかを考え、大局的・政治的判断で扱いを決める。
このあたりもニヤリとさせられ、読書の快がありました(p180-191)。
とはいえ、二人とも嫌な人物ぽく描かれていますけど。
さて、解説(p519-521)で指摘されている、エロスとタナトスについて。
フロイトのタナトスは自己消滅衝動なので、他者破壊衝動と無関係でないとはいえ、本作とフロイト思想の関係を云々するのはどうかなと思います。
素直に「性衝動と他者破壊衝動が混交する殺人」(p76-80、381、462-463)は、フランスならサドがすでにいたでいいのではないでしょうか。
しかし、性衝動のと結びつきが露骨なのがゾラらしい(p456「男性機能をなくす男たちのように、彼は不安でたまらず」、p464-465「欲望を満たした後の倦怠感」)。
一方、この衝動を個人(や一家の遺伝)の問題に矮小化せず、人類史的問題としているのがゾラの独創ではないでしょうか(洞窟で女性に裏切られた怒り(!)p79、461、464)。
これ、ミソジニーの議論まで射程が届きそう。
あと、ゾラがインスパイアされたという「罪と罰」(解説p517)と逆に、本作の登場人物は殺人を理性で納得できない(p87-89、368-370、374-377、463)。
理性で人殺しを説明できるって、自己中心的で冷たいやつだなあと思うくらいですが、どうにもならない衝動に翻弄されて苦しむ姿は何か気の毒に感じます。
最も興味深かったのが、身体的衝動と人間理性との関係の描き方。
予審判事のドゥニゼは「論理の力にうっとりする」人物(p480)。
彼は証拠、証言、動機から、殺人に至る経緯を完全に理解する(p480-490)。
そして「知性の勝利」(p486)と誇る。
確かにドゥニゼさんの推理は筋が通っていて、論理だけでなく人間心理の機微も織り込んだ完璧なもの(というか二重に説明できるプロットを考えたゾラがすごい)。
しかし、事件の真実は違う。
そういう意味で、この小説、<人間理性が動物的衝動に敗北した>という物語ではないでしょうか。
実際、事件が不可解とされるのは(殺人の)「理由がない」(p129、141、146)からです。
人間理性には「意図」「意志」がある。
しかし、動物的衝動は端的に「したい」で動き、そこに論理的因果はない。
そのような動きを理性は理解できない。
ラスト。
運転手はいない(=人間不在)まま、普仏戦争の前線に向かう兵士たちを機関車が前線に運ぶ(p508)。
各パーツが機能すれば「意図」「意志」がないままに駆動し続ける機械。
人間が作り出した機械(機関車)は、目的・意図と無関係な駆動力という意味で<新たな衝動>でもある。
そして、国家もまたそのようなものであると、ゾラはいいたいのかもしれません。
ところで、本作、機関車を擬人化しています。
訳者さんはそれを古い技法としていますが(解説p522-524)、違う見方もできると思います。
船、飛行機、自動車など、ともに過ごす時間が長くて、複雑な機構で動く乗り物を「彼女」と呼ぶのはあちらの伝統。
駆動する仕組みがブラックボックスでなかった時代は、油、炭の燃焼と水、空気の圧力で有機的に動いていた。
しかも各機体の動きに癖があり、運転手自ら整備(=お世話)することができた。
いつの間にか「人扱い」してしまうのが人情でしょう。
ゾラは、その卓抜な取材力で、そのような機関士気質を理解していたということだと思いますけど。
ハン・ソロだって、ミレニアム・ファルコン号のことをSheと呼んでいますから。
無茶苦茶面白かったです。
私の宿題。
ゾラが、殺人現場の車室番号を2939、グランモランの時計番号を2516、新しい機関車番号を608とわざわざ書いていること。
もし二千九百三十九と読まず、二、九、三十九のような読みなら・・・
Deux Neuf Trinte-neuf ドゥ・ヌフ・トラント・ヌフ = La Nef de Fous ラ・ヌフ・ド・フゥ(阿呆船)
Deux Cinq Seize ドゥ・サンク・セーズ = Droit du Seigneur ドゥロワ・ドュ・セニエール(処女権)
グランモンの時計の番号が「処女権」は気にいっていますが。あくまで妄想です。
ゾラ「獣人」 寺田光徳訳
3800円+税
藤原書店
ISBN 4-89434-410-6
Zola E: La Bete Humaine 1890