以前、伝記を読んで生きざまと主張に心打たれ、著作を読みたくなり購入。
先日、あるエライ方の発言に対して政治家さんたちが白い服を着て抗議なさっていた。
なんだか違和感があったのだが、日本の政治家なのだから青い靴下/ストッキング(青踏)にしたらいいのにと。
伊藤野枝さん。
いろいろなラベリングが可能。
無政府主義者。
労働・貧困問題運動家
本邦のフェミニズムのパイオニア。
でも私の感想は、主張が(行動は知りません。本作から読み取れないので)真っ当な保守的な人。
もちろん保守=右翼=愛国者=伝統墨守ではなく、単純な革新(=全部ちゃらにしてひっくり返す)ではないという意味。
本書の「青山菊枝様へ」「禍の根をなすもの」がいい例。
前者は、野枝の公娼廃止の議論に青山(後の山川菊枝)が嚙みついた、その反論。
青山の反論は「女子の拘束」(p204 権利的な制限)が問題で、ただちに公娼を廃止するべきこと、そうすれば私娼も廃れるという議論だった。
野枝さんは事実関係で不勉強だった点を謝罪したうえで、公娼制度廃止は同意と明記し、ただし過程を考える必要がある、そうでなければ「あんまり理想主義」(p203)だと述べる。
なぜなら「すべての事象は(略)必ず確たる根をもち(略)プロセスをもっている」ので「僅かな人間の意力(原文ママ)や手段では誤魔化せない」(p207)。
だから「人間が造ったりこわしたりすると云った処で(略)単純に(略)やれるものではありません」「破壊にも建設にも必ず相応な理由があります」(p207)と。
数年単位で造ったものでない、数百年単位で続いた制度がある。
良し悪しは別にして、長年に渡って出来上がったものにはそうなる理由があったはずで、それを、今現在、生きている私たちだけの判断でどうこうできるのか。
もちろん「そのままでいい」わけではないが「すぐに壊せ」は乱暴。
それなりの慎重さ、配慮、時間が必要で、そうでないと別の歪みが生じるのだと。
極めて真っ当。
野枝は、本質的には男が道徳的になるべきと望んでいる。
しかし、現時点で男だけに要求するのは「同情のない考え方」(p204)だと。
なぜなら(当時は)男女比の不均衡で(p204)結婚が困難な「不自然な社会制度」が問題なのだから(p204)。
さらに言えば、その仕事を「選んでいる」女性もいる。理由は、圧倒的に女性が貧困になりやすい制度設計だから。
だからやみくもに公娼をやめろといっても「彼女等を食べさせるような途を見つけなければ」無茶であり「迷惑」ではないか(p205)。
現代から見ればそぐわない論点はあるかもしれない。
でも議論の運びは真っ当(その2)。
後者の論文は教育論。
女性教育を変えるべきなのは当然だが、教育は男女の識別を教える「だけ」ではない。
無意味に男女を分けるのは「無知と憧憬」(p304)を生んで却って危険ではと主張する。
面白いのは性教育に関する野枝の意見。
当時、性教育を行う行わないで混乱していたらしい。
ファーブル昆虫記を邦訳した経験から、野枝さんは動植物の受粉や生殖活動を教えれば十分だと主張する(p309-310)。
それ以上は、おかしな好奇心を引き出すだけだから不要と。
ほぼ同時代人のルー・ザロメと同じ考え方。
彼女が強調するのは、男女の識別以前に「『人間』に対する識別を教えられるべき」(p304)で「一人前の『人間』をつくる」ことに集中しろと。
なぜなら教育の本質は「『人間』が立派にできあがる」ことだから(p310-311)。
そして、自分の子供達をもっと信頼しようと。
極めて真っ当(その3)。
本書前半は短編小説で、断トツで面白かったのが「雑音」。
当時の青鞜社の人間関係をそのままに描いたという(p213)。
現代からすれば上品な山の手の言葉遣いで、互いにお泊まりに行ったり宝塚的展開があったりで、のんびりして微笑ましい。
最後が獄中の大杉との書簡。
破天荒に描かれることの多い野枝さんの印象が変わった。
まず気遣いが行き届ている。
大杉の妻保子、大杉の別の愛人(!)神近市子と大杉を交えて話し合いたい、けじめをつけたいと穏やかな筆致で大杉に提案する(p352-353 大杉、スルー。てか神近のことを性欲の塊扱い。ひどい)。
野枝さんは叔父さんに、社会主義者なんてやめて渡米して学者になれと勧められていた(p377)。
彼女は学ぶのは好きだけれど、机上で議論する学者には興味がない。
何よりも大杉から離れたくない。
野枝さんの手紙は自身の心情を具体的に切々と描いた、ちょっとしたエッセイのような読ませる内容。
一方の大杉は本、思想、噂話に終始し、全然面白くないし、時に野枝に頭ごなしに指図している(p374-375)。
抒情的といってよい手紙を書き、男の指示を(おそらく)受け入れている野枝さんに、意外な一面を見た気がする。
ある手紙では、家にいると自分は「コンベンショナルな(ブログ主注:=慣習的な)家庭の女になる」し「あなたにも(略)いい家庭の旦那様になってほしい」と書いている。
しかし、自分の「そういう傾向」や大杉への「要求」は「無理である事は分かって」いると(p386)。
さらに彼女は子育てに時間を割きたいと願っていた(「青踏社を引き継ぐにあたって」p191-192)。
このことを持って野枝さんも家庭に入りたかったのだと「揚げ足取り」をしたいのではない。
女性の生き方が多様になるため、彼女は自分が望んでいた生き方を諦めたのかもしれないと指摘しただけだ。
彼女は子育てをしながら愛する旦那さんと一緒に学問をゆっくりと学べる、「普通の」家庭生活を過ごしたかったのかもしれない。
ただ、時代が、彼女の信念が、許さなかった。
また、居場所のなさにも苦しんでいた。
貧困層の居住地区に住むことを敢えて選んだようですが、結局、「いい所のおかみ」扱いされる。
助けたいと願っている人々に、疎外感から憎しみと軽蔑を感じてしまうことを、率直に吐露している(p250「階級的反感」)。
自分の否定的感情から目を逸らさない勇気ある態度は、中條百合子の小説擁護論文(「彼女の真実」)とも関係している。
野枝さんは自分の女性性を受容し、現実的な限界があることを踏まえつつ、具体的に社会をどう変えるかを考えていたのだろうと思う。
だとすると極めて現代的感性を持つ女性で、ただの「火をつけろー!」な人ではなかったのではないか。
そして、繊細な(部分もある)人だったのではないかなとも思う(恋文を送ってきた木村壮太への、気遣いに満ちた返事!)。
基本、短気みたいだけど(「青山菊枝様へ」の後半、明らかにキレています)。
そういえば「山川菊枝論」で面白かった箇所が。
三人の女性活動家(?)を評するもので、与謝野晶子は非論理的、平塚明子は同情に寄りすぎ、山川菊枝は理論的すぎとしていて面白いのだが、以下の文章が。
氏は柔らかい着物を着、暖かな寝床に寝て滋味をとりながら(略)支払いに必要な金が時々不足するというので自分を貧民扱いする(。略)不潔な長屋に住み、まずいものを食べ、過労と睡眠不足とに身を細らしながら(略)踏みにじられている労働者を捉えて、自分達より遙かに幸福な人達だなどと飛んでもない事を云う(。略)とうてい労働問題に理解を持つ事の出来る人ではない。(p263)。
・・・・いるねえ、こういう人たち。
「無政府の事実」は現代にも通じる共同体論。
何度も熟読したい。
伊藤野枝「伊藤野枝集」 森まゆみ編
1130円+税
岩波文庫