プルーストが死の直前まで推敲を続けていたという本篇。
異稿がいくつかあるらしいです。
本作はいわゆる最終稿で本邦初訳だそうです。
というか、それまでの全集ではどのような版を使ったのでしょうか(図書館で見かけたものは光文社版より長かったような・・・)。
「見出された時」を再読後、鈴木版でもう一度本篇を読んでみようと思います。
それにしても、異稿があるってブルックナーの交響曲みたいです。
推敲途中の本編
さて、アルベルチーヌと離別したことを後悔している「私」。
いかに彼女を取り戻すかを考える。
興味深いのが「未知」の意味が変わっている点です。
あるいは未知の別の側面を「私」は味わされる。
第四編「囚われた女」では、未知は喜びを与えるものでした。
本篇では?
「未知の状況に遭遇したとき、想像力は既知の要素に助けを求める(略)想像力は未知の状況を把握することができない」(p45-46)とされ、未知はネガティブなニュアンスに。
そして「未知なもの」は「私を悩ませた」(p62)と明記される。
実は未知には二つの面があった。
期待と同義で喜びを与える未知と、不安の萌芽としての未知。
そして、嫉妬感情も未知なことがあるからこそ、確実に分からないことがあるからこそ生じる。
「私の愛の根底をなしていた」のは未知なるものと(p62)「私」は語るのですが、未知は喜びと苦しみの両面を生み出すのに、「私」は苦しみである嫉妬だけに焦点をあててしまっていた。
だから、語り手のいう愛は苦しみ=嫉妬に即座に結び付く。
一方、既知と愛の結びつきがあると分かっていながら、「私」はそこから喜びを得ることができない。
この点は前のブログで書きましたが、語り手は<官能的愛>と<家庭的愛>だけしかないと思っている。
でも、その中間・移行に<パートナーとの愛>がありますよね。
それは既知と未知のあわいにあり、「私」が予感している通り、確かに倦怠を含むかもしれない。日常の些細なことの積み重ねによって生み出されるものだから。
しかし、この愛にも確実に未知な部分があり、そこに喜びを見出せるはずなのです。
なぜなら、他者を十全に理解する(=他者が完全に既知になる)ことなど不可能なのだから。
これって、全くプルーストから離れますが、能町みね子さんの名作にもつながります。
さて、一方のアルベルチーヌは、「出ていくという決断」をし、「夢見ていた生活をあきらめる」という決断をしたのだと「私」は思う(p53)。
語り手にもっとも欠けていたものを、アルベルチーヌは持っていたことになります。
出ていったアルベルチーヌを探すため、自分は動こうとせずにサン・ルーを呼ぶ「私」。
ナイス・ガイなサン・ルーはすぐにやってきて、「私」の額に手を当てたりしながら慰めてくれる(p73)。
なんていい奴。
ていうか、やはり、ちょっとBLな感じが・・・・・・
で、戻ってきたサン・ルーのちょっとした振る舞いからナイーブにも彼の人間性を疑い(p148-149)、なんとサン・ルーのことまで勘繰り始める(p158)。
もはや病気。
このくだりで、何とも居心地が悪かったのが、アルベルチーヌの写真をめぐるエピソード。
サン・ルーは「私」の趣味の良さを賞賛している。
だから「私」の恋人は大変に<趣味のよい>女性に違いないとサン・ルーは考えていた。
で、アルベルチーヌの写真を見たサン・ルーの反応(p74-75)。
呆然として、「君の愛している女性はこのひと?」
・・・・・
き、きびしい。
とはいえ、第四編の長々とした嫉妬心はどこにいったのか、「私」はアルベルチーヌのために死んでもいいと思う(p93-94 しかし「私」が死ぬと母が苦しむとも思ったりしている p95)。
そして「帰ってきてほしい」と熱烈に望む(p159)。
もっとも、一瞬、アルベルチーヌが事故にあってくれないかなどとも思うのですが(!!p158)。
読み手として呆れるのは、あれだけ自分が別れたいと執拗に述べていたのに、「アルベルチーヌが私と別れたがっていた」にすり替わる(!p143-144)。
長編で確認が面倒だったので正確に引用できませんが、確か「囚われた女」でも、ある登場人物がアルベルチーヌについて語ったとされる箇所、え、そんな発言してないぞ?というものがありました。
嫉妬で「私」は、いわゆる「信頼できない語り手」となっている。
そして運命の電報(p160)。
再び「青」の記載が多い頁が(p172)。
第二章。
アルベルチーヌの「せい」で諦めていたヴェネチア旅行を母としている「私」。
しかし、現実感を失ったり(p210)、メンタル的にアレな感じです。
そして、いざ帰国の時、「昔の欲望」が頭をもたげる。
それは「最愛の人に自分の意志を乱暴におしつけること」。
今回ならば「母に抵抗する」こと(p214)。
つまり、これまでのアルベルチーヌへの支配的態度は、両親(特に母親?)への態度と同じだった。
さらに、抵抗することで母を苦しめ、そのことで「私」も苦悩するという、例の<サディズムとマゾヒズムが同時にある>という状態まで同じ(p221)。
母親と恋人がどこまで重なっているのでしょう。
しかし。
「私」はアルベルチーヌに苦しめられ(たと思い込み)、取り戻そうとして(でも、自分は動かないで)、結果として彼女を失う。
母に対しては?
「習慣」の「衝動」で(p221)、出発寸前の列車にぎりぎり乗り込み、母のもとに自ら戻る(!!p221)。
アルベルチーヌのもとには戻ろうとしなかったのに。
これまで一編600頁超えが当たり前だった物語ですが、本篇はわずか190頁で終わります。
プルーストは意図的に短くしたそうです。
おそらく語り手の時間感覚を、私たちに体験させたかったのではないでしょうか。
あまりに悲しくショックな状況では、記憶は断片化し、時間感覚も変容しますよね。
・・・・てか、とうとう読み終わっちゃったよ・・・
気分を変えて、落ち葉拾い。
タイトルにある「失われた時間」とは何か。
本篇で初めて(たぶん)明記されます。一言、「過去」(p82)。
私の仕事的に興味深い一節が。
「何らかの現実性を付与するため、自我は鏡に映った自分の姿を記憶につけたす」(p94)
これフランスのエラい精神分析家の議論と相似です!
個人的には大発見ですが、どこかでとうに指摘されているのでしょう・・・・・
もう一点。
幸福とは「欲望の充足ではない」。
「欲望が漸近線的に減退」すること。
そしてそれが可能なのは「忘却のみ」である(p103)。
フランスのエラい分析家は欲望は成就しないと考えた(生理的欲求や、日常的要望、要請は満たせるけど)。
そして「欲望し続けろ」と言いました。
プルーストの意見は逆です。
「欲望を忘れろ」。
おお、個人的に重要な宿題です。
私もプルーストの意見に賛成なのですが、少し考えます。
うん、面白い!!
あ、最後に。
「女の美貌よりも大切なもの」がある。それは「彼女であると確信する何か」(p82)。
私たちが<この人>と選んだ、その相手の固有性とでもいえばいいか。
それは美しさよりも重要だと。
おお、かっこいいぞ!「私」=プルースト!
そして、「美しい女たちは想像力に欠けた男たちにまかせ」ればいいと(p80)。
おお、かっこいいぞ!「私」=プルースト!
でもサン・ルーとのあのエピソードの後だから、若干、言い訳がましいぞ!プルースト!
残念だぞ!プルースト!
文学作品でも仕事に関係することを考えられる、てか、プルーストの作品の射程が広くて長いのですよね。
本当に素晴らしい作品です(でした)。
ああ、寂しいよう・・・・
プルースト「失われた時を求めて 消え去ったアルベルチーヌ」 高遠弘美訳
705円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN 978-4-334-75156-2
Pourst M: A La Recherche du Temps Perdu. Albertine Disparue. 1925