続きです。
第Ⅱ部第二章で、鈴木版はⅡに移ります。
またサロン(Ⅱp32-230)。
今度はヴェルデュラン夫人のサロン。
ブルジョアの地位が上がっていることが描かれます。
でも中身は同じ。
いじめやら悪口大会(Ⅱp109-110、p134-135、p141、p151-156、p165-166、p173-174、p222、p351-352)
生半可な知識で、いい気になって悪口言ったり人をいじめているヴェルデュラン夫婦。
実は彼らの方が勘違いばかりしている。
周りにいる連中もブルジョワ階層なので、お追従で一緒に喜んでいる。
教養があり貴族の世界に食い込んでいる「私」は誤りに気づいていて(p157-159)、嫌気がさして話題を替えたりしています。
痛快なのが、シャルリュス氏。
「男爵」が通称なので、ある侯爵夫婦の下座に座らされている。
<気を利かせた>つもりで「あなたは男爵だから」とわざわざ説明したヴェルデュランさんに(この<説明>も余計ですよね)・・・・
「私は同時にブラバン公爵で、モンタルジ―家の息子で、オレロン、(いろんな名前が列挙 略)、各大公でもあるのですぞ。もっとも、そんなことはまったくどうでもいいのです。どうぞ気になさらぬように」
で、笑顔で一言、「私にはたちどころに分かったのですよ、あなたはこういうしきたりに慣れていないということがね」(Ⅱp170)。
かっこいい!
この時のヴェルデュラン氏の反応をプルーストは書いていません。
うまいなあ。
ヨーロッパの貴族は複数の家系が絡み合い、ほとんど縁戚か顔見知りなわけです。
その侯爵を当然、シャルリュスは知っている(と文中にもある)し、座席の位置の理由もきっと分かっていたことでしょう。
でもそれを「この程度の」サロンで態度に出しても(もちろん言葉にするなどという下品なことはするはずもない)仕方ないと思っていたのでしょう。
狭い貴族世界のことを、当時のブルジョアの人間は予想もできなかったのですね(たとえばⅡp216-217、p226-227)。
私も「本の知識」ですけど。
で、読んでいる方も社交の駆け引きに食傷気味になったところで、第三章へ。
ここは切なかった。
本作のもう一つの山場です。
シャルリュス男爵が、同名の別の同性愛者と誤解され、本人は気づかないままに「その趣味の人」と間違えられる(てか、実際、正解なんだけど)(Ⅱp342ー)。
プルーストの比喩はまわりくどいけど味があります。
「あたかも水族館の魚が、自分の泳いでいる水は水槽のガラスを超えてその向こうに広がっているように」欺かれている(Ⅱp356)。
「性質がいやしく」「育ちの悪い」男(Ⅱp382 ホントにむかつく!)を<恋人>にしてしまったシャルリュス氏。
彼が仲間たちとシャルリュスをあてこするような言動をし、「シャルリュス氏は(略)傷つく」(Ⅱp378)。
仲間たちだから、関係はバレていて当然なわけです。
そして、その男に冷たい仕打ちをされて、とうとう「涙をこぼし」「彼のマスカラを溶かす」ところを「私」は見てしまう(Ⅱp383)。
当時の貴族は化粧をしていたんですね。
「ベニスに死す」の映画版の方のラストみたいです。
その後の大騒動(Ⅱp384-400)。
傑作なのですが、どうぞお読みを。
相手の男、いい気味。
シャルリュス男爵の奇矯なふるまい。さすが、いきなりキレるサン・ルーの叔父さん。
巻き込まれたコタール医師の見当違いな怯えっぷりも傑作。
続くエピソードも傑作(Ⅱp404-416)。
冒頭で伏線かな?と思った地名と場所が、やはり最後で活かされる。
さすが、プルースト。
相手の男、いい気味(その2)。
スワン夫人の過去らしきことがちらっと出てきますが(Ⅱp417-422)、これは次回の伏線のようです。
わくわく!
さて、「私」のアルベルチーヌへの気持ち。
嫉妬して距離を取りたいみたいなことが書いてあると思うと・・・「愛しあっているにちがいない」。
てか、「ちがいない」って何ですか(Ⅱp309)。
で、お母さんと、彼女と結婚することを話し合った後(たぶん・・・・時間軸が曖昧なので)、今度は「嫉妬も愛情もほとんど感じなくなった」(Ⅱp344)。
はい??
その後、どんどんアルベルチーヌとは結婚しないと考えるようになる(Ⅱp443、p468)。
本作最後の第四章。
「私」は大きな決断をします。
これはお読みください。
「私」の恋愛観(?)が描かれています。
「相手を愛したが最後、もう自分は愛されなくなる」、そして「女性を惹きつける」のは「利害関係」と思い込んでいる。
それはスワン夫妻を見ていたからと(Ⅱp488)。
あるいは「嫉妬こそ人類の不幸の唯一の原因」だと考えている(Ⅱp392)。
どおりでしつこく嫉妬感情が繰り返し描かれているわけです。
本作後半で面白かったこと。
睡眠と目覚め。
「睡眠はおそらく時間の法則を知らない」(Ⅱp245)。
「私たちは、最近の三十年間の思い出さえ思い浮かべることができない(略)とすれば(略:思い浮かべられない時間を)誕生以前にまで引きのばしてはいけないのだろう?」
「私の知らない巨大な塊に(略)わが人生よりはるか以前(略:の)思い出が含まれていないなどと、だれが言えようか?」(Ⅱp248)
これ、集合的無意識を主張しているユングっぽいけど、もっと射程の長い話ではないかと。
レヴィナスが言っている「現在とならなかった過去」(「存在の彼方へ」)のことかなと思うのですが、いかがでしょう。
レヴィナスは「隔時性」、つまり回収できない時間の中にある別の私(「主体」と表現されますが)がいるのだと主張しています。
<私は目覚めた時、なぜ別の私ではないのか>と私の同一性を揺るがすような思考をしていたプルースト。
本作はレヴィナスなどのフランス系思想家の考えを理解しやすくしてくれる小説のように思えます(てか、元ネタ?)。
うーん、無意識のことを別様に考えられますね・・・・・
おっと、宿題です。
プルーストのマニアックな言語への関心。もう詳しくは書きません。
ただ面白かったのが、「私たちが得意になって正確な発音を心がけているフランス語の単語」自体が「ラテン語やザクセン語」を「でたらめに発音するゴール人の口によって作られた「リエゾンの間違い」」にすぎないというプルーストの記述(Ⅰp251)。
あと語源が好きな「私」がある教授に地名の由来を延々と聞くシーンは、私も語源マニアなので面白く読みました(Ⅱp70-79、p149-150、p152-153、p159-162、p444-448 プルースト、ちゃんと調べてます(注71Ⅱp508))。
母との関係。
アルベルチーヌの「顔を見たい」という欲求がやや官能的に表現されているのですが、この同じ感覚を「母に対して感じた」(Ⅰp243)。
彼女にキスをした時、「母にキスをするときとほとんど同じくらいの快感」を覚えた(Ⅰp414)。
似た表現で「母にキスをするように」彼女の首筋にキスする(Ⅱp489)
彼女との結婚を母に反対されて迷う「私」(!?Ⅱp141-142、p305-306)
というか、いい年して結婚の判断に母親の意向がかなり絡む(Ⅱp469)。
「私」の恋愛に確実に母の影がある。
「自分が追いかけている」ものが「幻影」とわかった「私」。
アルベルチーヌの「あいだにほかの女たちがはいりこんでいる」と気づく(Ⅱp295)。
ジルベルト、ゲルマント夫人の名前が挙げられていますが、なぜかスワン夫人がない。
というか、その向こうに別の人がいますね・・・
ところで、シャルリュスも「母親の話になると、感動をおぼえずにいられなかった」(Ⅰp215)。
お?
「私」もサン・ルーとBLっぽくなるし、サン・ルーに婚約のことで嘘をつかれていたことを「悲しい」(Ⅰp183)と表現する。
友達だったら<驚く>あるいは<隠すのは水臭い>などとは思うかもしれないけど「悲しい」って・・・・
なんか怪しい?
あと「私」は「汚された母」(Ⅱp107)について触れたいと書いています。
すっごい興味深いのだけど、どうなるのかあ。
わくわく!
以下、いいなあと思った文章。
「利害を離れた教養というものは(略)ひま人のおかしな時間つぶしに見えるが(略)同じ教養が彼ら自身の職業のなかでも出色の人間を作っているということは、考えてもいい」(Ⅱp334)。
そうだ、そうだ!だけど私はきっとひま人に見えてるぞ!
「意固地な者とは他人を受け入れられなかった弱者」で、「他人の評判など気にしない強者のみが、凡人には弱さと見られるようなあの優しさを持つことができる」(Ⅱp352)。
そうだ、そうだ!だけど私には無理だ!
興味深かった点。
バルザック批判が延々とあるのですが、プルーストはどう考えていたかのでしょうか(Ⅱp358-360)。
好事家の方に置かれましては、お調べを。
あと、私の仕事的に面白かった表現。
「神経の欠陥と芸術と関係がある」(Ⅱp190)。
笑えるところは第三章の後半の騒動ですが、小ネタもいくつかあります。
一例ですが、ヴェルデュランのサロンに出入りしているポーランド彫刻家。
発音が難しくて「スキー」と呼ばれている(!Ⅱp44)。
いくらなんでも略しすぎで、笑えました。
きっと、指揮者のスクロバチェフスキーみたいな名前なんでしょうね。
思えば、彼もアメリカでは「Mr.S」と略されていました。
面白かったなあ。
ああ、あと二編で終わりか・・・・・
プルースト「失われた時を求めて ソドムとゴモラⅡ」 鈴木道彦訳
5200円+税
集英社
ISBN 4-05-144008-5