ものの本によると、プルーストの構想は、第一編と「見出された時」で完結させるというものだったそうです。
なので、第一編読了後、そのまま最終編に。
時間。
流れが直線でなく、1914年と1916年を二往復くらいします(Ⅰp57、61、79)。
途中で時間が切断する箇所もあり、第一編と微妙に違います。
それから回想が少ない。
言語。
第一編から女中のフランソワーズや下々の方々の言い回しや文法の誤りを妙に細かく書いているのですが、加えて本編では時代による言語変化も描いています。
あと「流行語」が多用されるのを皮肉な視線で描き(Ⅰp73、122、169)、伝統的言葉遣いの崩壊(Ⅰp160-161、174)も描写する。
時代変化。
貴族階級の衰退(Ⅰp285-286、Ⅱp78-85、p156-158)や教養の崩壊(Ⅱp152-153)、対照的にブルジョワ階級に敬意が払われるようになる社会構造の変化が描かれています。
当意即妙で社会から遊離したサロンの会話より、世俗的なことを大いに語る、いわゆるジャーナリスティックな態度が貴ばれるなど(Ⅰp132-133、171-172、Ⅱp80)。
戦時の<愛国心>の意味の変化(平和主義者が雪崩をうって軍国主義者になる(Ⅰp151, 184))も皮肉たっぷりに描写されています。
中盤(Ⅰp304-)、「私」(プルースト)の文学論が開陳されます。
ゲルマント公爵夫人のサロンでの「私」の意識の流れですが、なんと約90頁、続きます。
どんだけぼんやりしているんだ、集中しろよ。
でも面白い。
ちなみに意識が文学論に飛ぶきっかけ。
匂いだけではなく、温度、音楽(Ⅰp305-306)。
重要なのは感覚(Ⅰp308、323、335)と印象。
「印象は内心で行われ、精神が把握する」「真理」(Ⅰp324、327)である。
逆に否定されるのが知性(Ⅰp327、352)。
「知性は(略)回避する口実を提供」し(Ⅰp324)「印象でなく博覧強記」は逃げである(Ⅰp346)。
「知性は平板で深みを欠き」(Ⅰp357)、知性の機能である「観察」「命名」「実用性」(Ⅰp353)は何かを蓋してしまう。
知性は何を蓋するのか。
「恒久的で本質的な何か」(Ⅰp311、313)。
過去、現在、未来にない「時間の外」で「時間の秩序から解放されている」何か(Ⅰp312-313)。
文学の方法。
「作家の義務と仕事は、翻訳」(Ⅰp344)である。
そして「夢こそ<失われた時>を見出す一つの方法」(Ⅰp379)。
つまり、写実的あるいは観念的作品を<創作>するのではない。
作家の夢や回想を<翻訳>することが文学を生みだすということでしょうか。
現実とは。
「現実は失望させるもの」(p311)で「本当の楽園は失われている」(Ⅰp309)。
だから「私」は「バルベックの美しさがバルベックに行っても見出さなかった(。略)思い出に(ある美しさも)二度目の滞在で私が見出した美しさではなかった」と言わざるを得ない。
そして「自分の内奥にあるものに現実では到達できない」(Ⅰp319)。
したがって「表現されるべき現実は外観にはない。深いところ」(Ⅰp331)や「物質や経験や言葉の下」にある(Ⅰp353)。
では「現実とは別に」あるのは何か。
「思い出」(p309)。
文学体験とは。
「<失われた時>を見出す唯一の手段」で「真の生」「唯一の生」(Ⅰp352)を生きること、「私の過ぎ去った生涯」を見出すこと(Ⅰp358)。
やはり「失われた時=過去」が重要だと。
さらに読者にとって作品は「自身(を)識別する(略)光学器械」(Ⅰp377)で己を認識するものである(Ⅰp206)。
あるいは「真の書物」とは「暗闇と沈黙」である(Ⅰp356)。
難解な表現ですが、表層的な概念や言語表現ではない方法で内面を描くのが「真の書物」であり、それを読むことは己を知ることと等価だということでしょうか。
ゲルマント家のサロンに。
「老いる」ことへの厳しくも容赦のない皮肉と物悲しい描写が延々と続く。
徐々に、併行して「忘却」も強調される(Ⅱp85-103)。
以下引用。
(略)ゲルマント大公夫人の髪の房は、絹のようにつやつやしていたグレーだった(が)白くなって(略)艶がなくなるに伴い(略)汚れて輝きを失った雪のような灰色(になった。Ⅱp53)
(略)ブロックの顔に(片眼鏡がはまっている部分は)すべての困難な義務から彼の顔を解放していた。すなわち美しくなる義務、才気や、親切や、努力などを顔にあらわす義務である(Ⅱp71)。
引用終わり。
声をあげて笑ってしまいました。
こういった描写の合間に、「思い出のなかで(人や出来事を)見出す(ことがある。)ちょうど古い公園にあるなんの変哲もない水道管が苔におおわれ、エメラルドの鞘で包まれているように」(Ⅱp103)などという美しい文章が唐突に出てきます。
どんな感情で読めばいいんだ。
ちょっと不思議なのはオデットだけ老いていないとされていること(Ⅱp63)。
いよいよ終盤。
初恋の人ジルベルトやその娘と逢い対話していくと、「私」は「時」という次元に改めて気がつく。
それは「平面心理学」ならぬ「立体心理学」である(Ⅱp203-204)。
そして「私の失った歳月」「時の観念」こそ、どうしても小説を書けずにいた「私」にとって創作の源なのだと「見出す」(Ⅱp205、220)。
「時」は「空間」と同じように「場所を占める」(Ⅱp231)。
そして「時間は私を支え」「時間と(略)移動させないかぎり自分も動くことはできない」。
「私の一生」つまり時間は、「私自身」であり「私によって生きられ、考えられ、分泌された」ものである(Ⅱp233)。
つまり時間は「肉体と化している」(Ⅱp231、p258訳注231 原文はincorpore。一般的に肉化はincarneですが・・・)。
同時に「私」は死を、時間が無いことを自覚する(Ⅱp220)。
そして、「私」は時間に切迫されながら、小説を、つまり<この作品=「失われた時を求めて」>を書き始めるのだろうことを匂わせて終わります。
鳥肌たったあぁ!
見事な反復と円環、伏線回収(書かなかったけど、お母さんのこととか呼び鈴の音とかも)。
それにしても<時間は私と一体>って、まるっきりハイデガーでじゃないですか!
すごいぞ、プルースト!
最後の文章もいい。「人間の占める場所はどこまでも際限なく伸びているのだ―<時>のなかに」
すごいぞ、プルースト!(しつこい)
さて、感動冷めやらぬ中、落ち葉拾い。
まず本作、1人称と3人称の混合です。
途中で「私」が語り様もない「別の場所」が突然挟まる(Ⅱp139-146)。
でも違和感なし。
すごいぞ、プルースト!(だからしつこい)
あとドゥルーズが取り上げた「シーニュ」が前半に(後でドゥルーズ読むときの備忘録:Ⅰp305.、317、322,323、366、367)。
メンタルヘルス的に興味深かった点。
自我について。
プルースト的には自我は多様で現実性はない(Ⅱp355、314)。
どういうことか。
回想の中で、相手も私も状況も変わる(Ⅱp217)。
本書の表現なら「彼女たちはそのたびに別人になり、私も別な人間に」なる(Ⅱp131)。
時間と共に、私も彼女も変化するから。
だから、<今、逢ってる相手>は「ジルベルトの断片に過ぎない今日の彼女」(Ⅱp133)という表現にならざるを得ない。
言い換えれば、同一人物が「私」にとって大勢いる(Ⅱp135)、あるいは「自我が次々と死んでいく」(Ⅱp46、p355)。
私の経験ですが、子供1がまだ赤ん坊だったころ。
日に日に変化する子供をみて、「ああ、もう昨日の子供1はいないんだ」と寂しくなったことがありました。
こういうことかなあ(たぶん違う)。
ちなみに、一貫しているのは、おそらく「普遍的精神」(Ⅱp355)。
どういう意味かな。宿題。
「悲しみは観念に変わる瞬間に、心を蝕む有害な作用を一部失う」「喜びが湧き出る」ことさえある(Ⅱp370)。
これ認知療法ですね。
妄想の名前で有名な俳優のフレゴリさんの名前が出てきます(Ⅱp61)。
ホントに最後。
「趣味に合わない」女性との結婚は幸福なのか(Ⅱp186-187)。
プルーストの答えは微妙ですが味がありました。
プルースト「失われた時を求めて 第七編 見出された時 ⅠⅡ」 鈴木道彦訳
4600円+税
集英社
ISBN:4-08-144012-3/-144013-1
Proust M: A La Recherche du Temps Perdu. Le temps retrouve.