<タイトルは知っているけど読んでいなかった本>シリーズ。

 爛れた恋愛ものっぽいし、そういう作品に関心がなかったので遠巻きにしておりました。

 

 読後の感想。

 読むタイミングを間違えた・・・・・

 ちょうど荷風さんの時と逆。

 

 
 

 ところで、初期三島由紀夫がラディゲに影響を受けたのは有名ですが、調べると堀辰雄もそうだったそうです(江口清「ラディゲと堀辰雄」比較文学 1:68-76,1958 PDFで読めます)。

 意外です。

 

 

 さて、いつものことですがあらすじは一行で書けます。

 15歳の「僕」と19歳の若妻との不倫物語。

 後は本書をどうぞ。

 

 

 本書の評で見かけるのが、「早熟さ」「文体が硬質」「細やかな心理描写」。

 しかし、文章の硬質さは、正直、邦訳ではよくわからなったです(論文を探しましたが、ネットでは見つからず)。

 

 

 本作の私の印象。

 第一次世界大戦後のシュルレアリスム勃興<=戦争を止められなかった理性への失望>の時代(酒井健「シュルレアリスム」中公新書)をフランス伝統の恋愛小説で描いた小説。

 大戦中から後の倫理観の混乱、それを理性でなく衝動に生きた青年を通して描いた(家主夫婦の目論見と集まった大人たちの逸話p119-121は、ホントに最低!!)。

 

 

 戦争を(も)描いていることは、冒頭から宣言される。

 

 「戦争の始まる何か月前に十二歳だったことが、僕の落ち度だとでもいうのだろうか(略)多くの幼い少年にとって、あの戦争が何であったかを想像してほしい。あれは、四年間の長い夏休みだった」

 

 戦争は「僕」の事情と関係なく始まった。

 そして、動員をまぬがれた年齢だったことへの罪悪感(があったかもしれません)、成人男性が留守なのが日常になったこと、そして価値観の変動が、「僕」にとてつもない影響を与えた。

 

 ここは、例のはやり病で生活を大きく攪乱させられた「今の」学生さんには沁みる文章かもしれません。

 

 

 江口先生がご指摘の堀辰雄がパクっている「狂女」のエピソード(p18-25)。

 「戦争という奇妙な時期のことをよく理解させてくれる」出来事だった(p25)。

 それは「1914年7月14日の大革命記念日」に起きた(p18)。

 

 第一次世界大戦は複雑な同盟関係の中でなし崩し的に始まったので、国によって開戦日が異なるのですが、フランスが動員を始めたのは8月上旬(木村康二「第一世界大戦」筑摩書店)。 

 なので、「狂女」の件、6月のサラエボ事件からフランス開戦までの出来事。

 自由・平等・博愛の確立、つまり<啓蒙=理性の勝利>を祝う日に、<狂気=反理性が耳目を集めた事件>が起きた。

 当時、異様な雰囲気が漂っていたことがわかります。

 うまい!

 

 

 P26の描写:「大砲の音が聞こえてきた」はマルヌ会戦のことかもしれません。

 その後、ドイツ軍は撤退して塹壕戦が始まった。

 とはいえ「僕」の故郷のマルヌは、その後も戦場になっていますし、戦略上の要所だったので動員兵が東へ向かうのを「僕」は見ていたことでしょう。

 しかし、以後、戦争に関して、マルトの婚約者が兵役で前線にいること以外、記載がありません。

 

 

 冒頭からわずか約20ページで、一気に3年後に。

 1917年4月、「僕」はマルトと出会う。

 同年は、映画「レッド・バロン」でおなじみリヒトホーフェン伯爵が大活躍したころです。

 「僕」の頭上を多くの複葉機が東へ向かうのが見えていたかもしれません。

 

 物語が動き始めるのはここからです。

 そして「あ、この作品、苦手かも」と私が思い始めたのもここから。

 

 マルトと本の趣味があうことがきっかけ。

 ボードレールとヴェルレーヌ(p35-36)・・・・・うーんと・・・まあ、いいです。

 

 

 以下、皆さんはどう思われるか。

 

 「僕」はマルトにバラを買う。とはいえ彼女を喜ばせたいからではない。

 婚約者のいるマルトが、バラについて両親に嘘をつかなくてはならないのが楽しみだったから(p47)。

 

 婚約者の写真をみて「ハンサムだといいながら(略)すこし口ごもるような調子を忍び込ませた。儀礼上そう言ったのではないかと思わせる余地を与えたのだ(略)僕の心づかいに感謝する気持ちも引き出」せるから(p48)。

 

 出会って約半年後。

 「僕の心はマルトのそばで次第に麻痺し(略)恋愛になくてはならないと思っていた駆け引きが、自分にはできないことに感じられた(略)僕の愛が消えて、美しい友情にとって代わられた」(p61)。

 

 決定的なことが伝えられた場面。

 「僕」はマルトに対して「あなたは僕をからかったんだ。あなたにはもう会いたくない」とわざと突き放す。

 マルトは涙ながらに、「僕」の存在で自分は婚約者を愛していないことに気付いてしまったのだと言う(というか、言わざるを得なかった p67)。

 そして、このマルトの精一杯の「愛の言葉」を「子供っぽい」と「僕」は思う(p68)。

 

 「愛とは二人のエゴイズムにほかならない」(p90 p195に同様の表現)

 

 マルトに自分と婚約者を比較させる。

 それを非難するマルトに「僕のことを嫌いになれたから」マルトにとって「幸せな日」だという。

 そして(ブログ主注:僕の行った)「攻撃は、攻撃を行った者を傷つける」(p91)と考える。

 

 ある出来事があってマルトが絶縁状を送ってくるが、「自殺すると脅さないことに僕の自尊心は傷ついた」。

 「僕」は「ほんとうに自殺する気はなくても(略)自殺すると(略)脅すべきだと考えた(略)ある種の嘘をつくことは恋愛というゲームの規則」だから(p155)。

 

  

 ・・・・いかがでしょうか。

 

 フランス流の「駆け引きを楽しむのが恋愛」という文化が背景にあるのかもしれません(・・・なのか?プルーストでは、「私」とアルベルチーヌとの関係もそうでした)。

 私には無縁な文化ですが、恋愛云々以前に私的には引っかかることがある。

 

 一貫して「僕」は、強烈なナルシシズムとエゴイズムを放散し続け、マルトを見下し、振りまわし続ける。

 しかもそのことに、おそらく本人は気付いていない。

 

 「早熟」とは、こういうことなのでしょうか。

 青年期に入りつつある男の衝動と感情のアンバランスさ、嫌らしさを巧みに描写する。

 しかも私の印象では、この嫌らしさをおそらくラディゲは否定的に考えていない。

 

 まったく女性にモテなかった私にもナルシシズムとエゴイズムの時期があったことは否定しません(てか、まだ残滓があります)。

 だからこそ、私は20歳代から30歳代には二度と戻りたくないし、考えたくもない。

 

 なので、ずーっと私は、この本、共感できない・・・てか若いころに読んでいたら違ったのか?と頭の中が疑問符でいっぱいでした。

 

 一方でラディゲは、この自伝的な作品の中でわずかに「年齢の未熟さ」(p155)「僕たちは子供だった」(p180)と記しているので、自分たちの稚拙な感情処理、無思慮な行動に自覚的ではあったようです。

 でもなあ・・・。

 

 

 あと、確かに言い回しはうまいのですが、やはり若書きゆえの空疎さを感じる。

 たとえば以下の表現。

 

 「すべての愛には、青春期と成熟期と老年期がある」(p124)

 若い時なら「おお!かっこいい!」と思ったかもしれませんが、今の私は「えぇ!そうすかぁ?」です(エラそうですいません)。

 

 「恋する男は―街で感じる欲望をすべて集めて―愛を豊かにする(略 ブログ主注:浮気性の男の欲望は満たされない。そして、その欲望を全て恋人に向けるため)恋人はこんなに強く愛されたことは一度もないと感じる」(p157)

 若ければ「モテる男は言うことが違う!」と思ったでしょうが、おっさんの私にはこの他者不在の考え方をなまじ巧みに表現されて却って不愉快。

 

 「世の中の秩序が自然に回復することを悟った」(p204)

 終戦と悪行の終わりの二重の意味を持たせた「うまい!山田くーん、座布団2枚持ってきてー」な文章ですが、後者の意味では薄っすらと自己憐憫の匂いを感じます。

 

 

 

 私が辛うじて共感した箇所。 

 

 マルトを愛し始めていた時に感じたこと(振り返るというニュアンスになっています)。

 「マルトと意見が」異なると「僕」は「自分のほうが間違っていると思うようになった」、そして「優しい感情を僕は理解しそこなった」上に「マルトを尊敬しはじめていた」(p62)。

 

 

 おじさんとしてはですね、フランス人でも何人でもいいんだけど<駆け引きや計算>とかそういうことは、相手のことを尊重できる年齢になってからの<敢えて>なんじゃないの?と、小一時間説教をし・・・・いえ、なんでもありません。 


  

 とはいえ、やはり名作なんだなあと思った点。

 本作の時間感覚です。

 冒頭こそ日時を明確にしていますが、その後の文章は、書いている「僕」と書かれている「僕」の時間差を曖昧にしていて、無時間なプルーストの作品のようです。

 「習慣」がキーワードで登場するのも「失われた時を求めて」っぽい(p68)。

 その奇妙な味わいは堪能できました。

 

 あと、以下の表現。

 「死にかかったことのある人は、死を知っていると思う。だが、ついに死が目の前に現われたとき、それが死だとは分からない。『こんなものは死じゃない』といいながら、死んでいく」(p199)。

 よく20歳で書けたなあと。

 

(*11月10日追記:「失われた時を求めて」の<スワン家の方へ>で似た表現を見つけました。20歳でこれを書くかぁと思ったのですが、たぶんプルーストの影響ではないでしょうか。以下引用:瀕死の病人の思考は(略)実際に感じられる(略)死の裏側のほうへ向かう。(略)死はそのようにして(略)裏側にあるものを(略)病人に情け容赦なく感じさせるのだが(略)それは私たちが死の観念と呼んでいるものよりはるかに、病人を押しつぶす重荷―呼吸困難や喉の渇きに近い。以上引用終わり。光文社のp202です。つまり死は単なる観念ではない、死に向かうまでには想像することもできなかった具体的な苦痛という身体感覚こそが<死(へ向かうこと)>と言いたいのではないでしょうか。プルーストの方が表現が凝っている上に分かりやすいです。さすが!!) 

 

 

 やっぱり、20代に読むべきだったかなあ。

 「ドルジェル伯の舞踏会」はどうだろう。

 

 てか、コンスタンの「アドルフ」と似ている気がするんだよなあ。

 そう、若い男は身勝手ですよ・・・(あ、おっさんも別の意味で)。

 

 

 

 

レーモン・ラディゲ「肉体の悪魔」  中条省平訳

476円+税

光文社古典新訳文庫

ISBN 978-4-334-75148-7

 

Radiguet R: Le diable au corps.   1923