まだ例の学問に関わる会議の話題が続いています。
繰り返しになりますが、学問なさっている方のご専門が「XX主義」だろうとなんであろうと、それは自由です。
ただ、その方がどのような<行動>をしているかは<人柄や品性の問題>です。
これは学問とは無関係ではないでしょうか。
とはいえ、人事に不満で抗議しても良いのなら、私は10年くらい前にいくつかの大学の公募に書類を出してある大学に落とされた時、「なぜ落としたのですか?理由を教えてください。不透明です。説明責任があります」とか「私を落とすと貴学が大変なことになりますよ」とか「私が学問する自由を奪いましたね」とか言えばよかった・・・・・・って、嘘です。
これって世間的な常識の範疇のお話ですものね。
というか、こういうことを書くとキナ臭いブログになるので、もうやめます。
さて、以前、仕事で大阪に行ってある神社を訪れたところ、「織田作之助云々」「夫婦善哉云々」と、なんとも味わいのある手書きの旗が、参道の両側にずらりと並んでいました。
正直、ぎょっとする風景だったのですが、織田作之助が大阪の方にとって誇るべき作家の一人なのだなと、その時、実感したのでした。
本書。
驚いたのが、ほとんどト書きのような文章(実際、織田は戯曲ばかり書いていた時期があったそうです 解説p372)。
なので、ものすごいスピード感です。
ご存知、「夫婦善哉」は、寡黙なダメ夫としっかりものの妻の人生の浮き沈みを描く。
内面描写ほぼなし。
出来事だけが目まぐるしく展開する。
わずか60頁の短編ですが、ある夫婦の数十年を一気に伴走したような軽い疲労を読後に感じました。
この作風は、いずれの作品でも同じ。
前回取り上げた横光の場合、文章が刈こまれて詩のようでしたがhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12630397759.html、オダサクは情報量は少ないけれど、あくまで普通に散文です。
興味深いのは、普通、ここまで骨格だけの文章だと、「きょうは、ぱぱとままと、うるとらまんしょーに、でかけました。アイスクリームを、たべました。ジェットコースターに、のりました。ままが、ぱぱとけんかしました。たのしかったです」という小学生のような文章になりそうですが、そうならない・・・・って、作家さんなのだから当然ですが、でも大変な技術ではないでしょうか。
必要最低限の情報をもった各文章が有機的に絡み合い、単なる羅列にならない。
一方、アンバランスなことに、地名や登場人物の移動する場所や方向を、地図を指でたどるかのような細かさで描く。
「重要なことは最も簡潔に描くべし」(「中毒」p238)、あるいは「曖昧な思想や信ずるに足りない体系に代わるものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思って(略)でたらめな地名や数字、職業名をちりばめている」(「世相」」p187 文章を前後入れ替えています)という技巧論をもっていると、織田作之助は主人公たちに語らせているのですが、これらは嘘つきオダサク(後述)の「本音」なのかもしれません。
「夫婦善哉」に戻ると、ダメ男だけど、一目みて蝶子さんが赤面する「しっかりした風貌」の夫。
男前と想像します。なので、私の脳内キャスティングは柳吉=伊原剛志さん。
蝶子さんは、大阪といえばこの人、藤山直美さん以外に思いつかない。
この「ダメ夫」と「しっかり女房」が喧嘩して、仲直りして、喧嘩して、仲直りして・・・・・
最後のシーンは、ちょっとべただけど、泣いちゃいます。
それにしても、上方の伝統なのでしょうか?この男女の組み合わせ。
歌舞伎でも上方の世話物(和物)は、金持ちのダメ息子が傾城の女性から離れられなくなって身を持ち崩すといった作品が多いように思います。
考えてみれば藤山直美さんのお父さん、藤山寛美さんの演劇も「ダメ男が一生懸命生きる」の流れでしたよね。
ところで、織田作之助が面白いのが、徹底してフィクションにこだわったことです(「可能性の文学」)。
彼は日本文学のお家芸、私小説を徹底的に批判します。
というのも、織田にとって小説とは「嘘の可能性」(p337)であると。
日本以外なら当たり前な話ですが、残念ながら日本では「大学教授すら、小説家というものはいつもモデルがあって実際の話をありのままに書くもの(略)と思い込んでいるらしく(略)恐れ入らざるを得ない」(p336)。
たとえば「世間」という小説で、主人公の小説家は阿部定事件の裁判記録を手に入れるという設定になっている。
で、ホントにある大学の先生に「あなた、小説に書いているくらいだから、公判記録を持っているんでしょ。貸してほしい」と言われたのだそうです。オダサクは「あれは嘘です。登場人物から全部嘘です」と返事をしたと、あるエッセイに苦々しげに書いています。
しかしですね、実際には公判記録を持っていたそうです(! 解説p378-379)。
この、オダサク的には「嘘を書くべき小説」で本当を書いて、一応、「本当のことを書くことになっているエッセイ」で嘘を書くという捻りが、「嘘の可能性の追求者」の面目躍如といったところでしょうか。
ほかの作品は少し奇妙な味わいです。
本人的には未完だったそうで(p322)、そういうことも少しは影響しているのかもしれません。
とはいえ、未完だから作品の完成度が低いということはなく、各作品にきちんと主張があるように思います。
共通しているのが「収まるころに収まる」という、ある種の中庸さ。
ご都合主義と言われそうですが、読んでいてそのような印象は受けません。
むしろ、私たちの人生の多くは、そのようなものではないかと思います。
極端な悲劇も、極端な幸福も、ない。
「そこそこ」の幸せと不幸せを、(妻と/友人と)共に味わうものだという。
そういう意味で<庶民を描いた小説>です。
でも、(単なる)<庶民のための小説>ではない。
微妙な違いですけど。
だって、分かりやすい<庶民のための小説>は留飲を下げることができないといけませんよね。
たとえば、「三人まとめて、千倍返しだ!」といった主人公が、ちゃんと千倍返しできるとかね。
私的に残念なのが「怖るべき女」が、本当の意味で絶筆なことです。
この作品、どうも阿部定を描こうとしていたらしい(解説p379)。
主人公は、感情とそして「何か」が欠落した絶世の美少女。
彼女は性の世界に入る・・・・といっても、入り口(の手前?)で絶筆。
彼女の「何」が欠落しているのか、そして、それがどのような顛末として描かれたのか(阿部定がモデルだから出来事自体は分かっていますが)、読みたかったです。
最後に、オダサクの女性観。
本書だけでは、あまり明確ではないのですが、それでも魅力的です。
「夫婦善哉」の蝶子さんの言動と、もう一作、「世相」にちらっとだけ出てくる(わずか2ページ、数行だけ)バーのマダムの妹。
二人とも、寡黙、我慢強い、本人なりの道徳観をもっているらしい(筋が通っていると言い換えてもいい)、そしてよく働く。
若くして亡くなった織田作之助。
最終的に、彼がどのような女性を描いたか読みたかったです。
それにしても「中毒」にでてくるエピソードは本当なのかしら?
「ある雑誌でH・Kという東京の評論家を呼んで(略)座談会をやった。司会をしたフランス文学研究会のT・IはH・Kの旧友だった(略)話がたまたま昔話に移った。(略)H・KはいきなりT・Iにだきついて、泣きだした。(略)速記者があっけにとられていると、二人は起ち上がって、ダンスをはじめた」(p250)
フランス文学批評のH・Kといえば、当然、あの大先生ですが、旧友と泣きながらダンスって・・・・
でも、オダサク、嘘つきだからなあ。
織田作之助「夫婦善哉・怖るべき女」
600円+税
実業之日本社文庫
ISBN 978-4-408-55154-8