今日は、外出を控えた方が多いからか仕事に余裕があって、業務の合間に読了した本です。

 これ、カウンセリング、サイコセラピーにも使える・・・というか、ナラティヴ・セラピーや家族療法が元ネタでしょうから、話が逆ですね。

 

 

 程よい分量。

 具体例から始まる分かりやすさ。

 難解な説明や用語なし。

 とてもリーダブルです。

 

 

 本書、本来は葛藤対立を仲介する方(メディエーター)のためのものです。

 葛藤対立というと、どことなく理想論に落とし込まれてしまいそうです。

 でも本書は、「調停者は中立、公平であることはありえない」(p5)という文言で始まり、いかにも現実的です。

 中立でないとすれば、じゃあどうするか。

 「反射性」が大事と(p6)。

 反射性といっても、何とか派の「あなたは~なんですね」と、ただ相手の科白を繰り返すことではありません。

 原語のreflextionに含まれる「内省」も意味しているのでしょう。

 というのも、調停者は「事情を充分に理解しているべき」と指摘されています(p6)。

 自分が、出来事や当事者の状況をしっかり分かっているか、都度都度、確認することが求められているという意味だと思います。

 

 そして、目標は「合意」ではない。当事者たちが「前進する道を見出すことの手助け」(p13)をすること。

 確かに「合意」だと、「そこでいったん終わる」イメージですね。

 でも人の葛藤や対立はそんなに簡単に終わりにはならない。

 結構、後々まで響いたり、いつの間にか問題が再燃してきたりするものです。

 この目標についても、本書の身も蓋もないまでの現実性を垣間見ることができると思います。

 そして、そういう性善説的な理想に留まらない点が、繰り返しますが、本書の真骨頂のように思います。

 

 おおっ!と参考になった一文。

 「人が問題なのではない。問題が問題なのだ」(p14)。

 

 これ、いいですね。

 カウンセリングで強調される「中立性」を具体化した文章ではないでしょうか。

 「中立性」ってよく注意されますが、これだけだと抽象的で、具体的にはどうすればいいの?と常々疑問でした。

 でも、この一文で、決して当事者のキャラ(だけ)に注目しない、たとえば「頑固だから」、「衝動的だから」、「自己中心的だから」などの個人的特性、あるいは<病理>に還元しないことだと分かります。

 確かにそんなことしてもバイアスが強まるだけですものね。

 

 問題は「問題」なのだ。「個々人の病理」ではない(だけではない)ということですね。

 うーん、なるほど、なるほど。

 

 

 さて、本書で紹介される技法は3つだけ。

 まず「二重傾聴」(第3章)。

 これは葛藤・問題が提示される際、当事者がたいていおっしゃる「でも・・・」「だけど・・・」と付け加える(p34)複数の物語にも、というか、むしろ、そちら「に」目を向けるという姿勢です。

 また本章では、「例外」への注目という神田橋先生や家族療法などで指摘される方法も簡易に説明されています(p36-41)。

 

 

 次が「外在化」(第4章)。

 これは「誰それの」「なになに」という問題にしない。

 たとえば「旦那のだらしなさ」とか「妻が口うるさい」など所有格のついたネガティブな言葉にしない。

 「あの問題」や「みなさんが困っていること」など中立的なラベルに言い換える。

 そうすることで、当事者が真っ向から対立している状態から、横並びで協力して「例の問題」を解決するという姿勢に変化していく(p54)。

 私的に参考になるのが、「内的な体験を(略)追及しない」(p49)、「原因を追究しない」(p51)という姿勢です。

 むしろ「そのことでどんな影響を受けたのか」を徹底して話し合う。

 話し合いのベクトルを「今から過去」にしない。むしろ「今から未来」に向ける。

 そうすると、「ではどうしたいか」「そのためにはどうするか」を話し合う契機が待っているわけですね。

 参考になります。

 

 

 最後は「分析的質問」になっていますが、私なりに言い換えると「肉付けする質問」です(第5章)。

 決して「心理的側面」「感情」「内面」を言語化することを強いない。

 それって、時に侵襲的です。

 そうではなく、具体的な「出来事」を肉付けするように質問をする。

 

 たとえば、葛藤している当事者が妥協点として「お互いに認め合うことですね」と言ったとする(p58)。

 「素人さん」が相談にのっているのなら、妥協点を見出したということで、ここまででいいでしょう。

 でも、お金いただいていたりする「プロ」なら、ここで止めてはいけない。

 だって、まだまだ抽象的ですから。

 「その認め合うというのは具体的にはどのようなことか。これまで具体的な例はないか」を「しつこい」くらいに質問する(p60-63)。

 そうすることで、ただの妥協点が、相互理解にまで到達する。

 それは互いの「違い」をも含めた理解、「あなたはそう思うのね、私は違うけど。でも事情はよくわかりました」に至る。そうしないで「妥協」のままだと、問題はまた再燃してしまうかもしれない(p62)。

 

 

 私的に興味があったのが第6章でした。

 このような「葛藤対立の解決」は、一時的な「事情はよくわかりました」で終わらないか、時間の経過とともに「でも・・・・やっぱり、納得いかない・・・」にならないのかというのが、疑問でした。

 じゃあ、変化を維持させるためにはどうすればいいか?

 答えは・・・・

 ・・・・簡単でした。

 

 問い続けること。

 「しつこいほどの好奇心をもつこと」(p78-79)。 

 

 たとえば謝罪があっても、それは葛藤対立の話し合いの「結果」ではない(p88)。

 言い換えれば、謝ることが目的ではない。

 それはそうです。でないとちょっとした「つるし上げ」になってしまう。

 あくまで「謝罪」は「1つの出来事」に過ぎない(p88)。

 たとえば、具体的に謝罪をどう行動に移すかの努力を問い続ける(p88)、また相手がそれを受け入れたなら、どうして受け入れたのか、他に引っかかっていることはないかを、繰り返し話し合う(p92)。

 

 

 本書で何度も出てくるのは、「物事は複雑である」という前提と「複雑さこそが解決の糸口になる」という信念です。

 逆にいえば、「よくある物語に問題を落とし込まない」(p24)ということ。

 常に複数の、相反する物語が、表面の葛藤の背後に、あるいは脇にある。

 そして、それを「無意識」とか「根底」などの垂直方向の話にもっていかない。

 あくまで現実的出来事の水準で話し合い、個人心理にもっていかない。

 

 いたずらに心理や内面をいじるのは、繰り返しますが、侵襲的で当事者を傷つける危険がある訳ですからね。

 「こころ」なんぞに下手に興味をもたずに、うまく問題を解決するのが理想ですよね。 

 

 

 短時間にとても勉強になりました。

 

 

 

 

 

G.モンク、J.ウィンズレイド「話がこじれたときの会話術 ナラティブ・メディエーションのふだん使い」  池田真依子訳

2200円+税     120ページ

北大路書房

ISBN 978-4-7628-2860-7

 

 

Monk G, Winsldae J: When Stories Clssh: Addressing Conflict with Narrative Mediation. Taos, 2013