三浦瑠麗さんのこの本、なんでも売れているらしい。
しかし、私の住んでいるところの本屋ではやっぱり見かけない・・・
ああ・・・・まことに、さびしい地域に住んでおります。
第一章は現在の国際情勢分析。
さらに前著からのご主張、実際に戦場に赴かないで後方で命令だけしているシビリアンこそ好戦的なことさえあるという危険性のご指摘のあと(p35)、フランスとスウェーデンの徴兵制復活についての簡単な説明がある。これが面白い。
フランスは、移民増加の中で国民を再統合させたかったから(!)、スウェーデンは軍が定員不足だったから(!!!)(p38)。
では三浦さんは、わが国において、どのような理路で徴兵制導入をお考えなのだろうか。
まず議論の前提としてカントが引用される。
カントの「永遠平和のために」は、しばしば「市民の平和性を仮定され」(p54)「常備軍と戦時国債を禁止する」前提を省いて「民主化思想の部分だけを取り上げ」て議論されがちである(p67)。特にアメリカでは「国民が意志決定者になることで抑制的になりうる」箇所が拡大解釈されて引用されるという(p67)。
カント、「非社交的社交性」とか言っていた人物である。
国民が「抑制的」とか、「民主制がいい」とか、そんな単純な人じゃないのは、中島義道先生の「カントの人間学」(フーコーの方ではない)に詳しい。あるいは「人間愛から嘘をついてもよいと誤って思い込まれた権利について」を読むといい。
一言で言えば、カント、ちょっと性格悪い。
そこはさすが三浦さん、カントは「民衆制(ママ)」が「多数者の横暴」を許す体制であるために嫌悪していたことを指摘なさっている(p57)。
で、話が戻ると、カントの主張するいくつかの提言のうち、常備軍の廃止が、郷土防衛軍形成=徴兵制の必要性につながるわけである。
第二章(p73-)は、ちょっとした軍事史である。
個人的にはここが一番面白かった。
アッと思ったのが、三浦さんは明確には指摘されていないが、総動員(general mobilization)と徴兵(conscription)が違う(p75)ということだ。
「兵役につく」というと日本では国家総動員となった先の戦争中の軍事優先の状態を想起するが、総動員はまさに戦争状態の最中に行われるもので、徴兵は平時にも行われるのだから、意味が違う。
少なくとも、軍事予算を膨大にかけている国家=「軍事国家」=徴兵ではない。軍事予算と関係なく徴兵は行い得るからだ。
話を戻して、p83からローマ時代から軍事史の解説になる。
辺境国の傭兵に戦闘を任せたことで反乱が続発して崩壊したローマ(p83)、傭兵が中心となったが、意外に彼らの練度が高く、必ずしも「金だけで動くならず者」と言えなかった中世(p281 註11)、徴兵による軍隊が作られ始めるが、新興市民層は「私事」としてとらえなかったために軍と市民が分断された時期をブリッジして(p90)、大革命後のフランスで、とうとう本格的な徴兵による国民常備軍が形成される。しかし、共和制が崩壊し、恒常的戦争状態だったことが原因で、この制度は崩壊する(p91)。
さらに、国家総動員となった第一次世界大戦で国民の負担が可視化されてその発言力が強まり、ヨーロッパの民主化が加速し(p93)、冷戦時代には、ベトナム戦争で白人層の徴兵が増えてから反戦デモが激化(p97)したことなどから、反戦・平和主義と徴兵制が関係しているだろうというのが、三浦さんの読みだ。
ほかにも先の戦争末期、基本的に日本国成人男性全員が対象の徴兵が行われたことで、「自分も戦争に行くかもしれない」ことから日本国民が戦争に抑制的になったという指摘(p123)がある。
以上から、近代までの反省は、戦闘をアウトソーシングすることは得策ではなく(これでローマ帝国も中世の王侯たちも力を失った)、しかし、徴兵による国民軍は結局、「戦争の予防」になりなかったということだろう。
その理由は、当時は国民全体が意志を伝える方法がなかったうえに、戦闘が絶えなかったことによる。
では、その後は?
日本が先の戦争で、軍部の暴走を許したのは「徴兵があったからではない」というのは、その通りだと思う(p122, p295註3)。
このあたりは筒井清忠隆先生の「戦前日本のポピュリズム」に詳しい。同書では、当時の制度上の問題や、報道のあり方、国民感情の問題が詳細に検討されている。
しかし、三浦さんの第一次大戦後の議論については少し疑問が残る。
第一次大戦で民主化が拡大したというご指摘。ぴんとこない。
軍事史的には第一次世界大戦と第二次世界大戦は連続していると考えるものらしいが、「大戦間」に具体的にどのような変化があったのだろうか。確かにヨーロッパでは貴族層がほとんど力を失ったとされるが(「第一次世界大戦」ジャン・ジャック=ベッケール)。
さらに先の戦争で、日本国民が徴兵制で「戦争に抑制的になった」という指摘は、どのようなデータに基づいているのだろうか。
またベトナム戦争の反戦運動は映像の力の大きさ(戦闘の凄惨さが可視化されてしまった)が影響しているというのも、すでに常識のように思う。
一方、イスラエル、韓国などの徴兵制がある国で、時の政権が開戦間際まで動いた際に反対運動が起きて、結果として開戦が回避されたという事実は、非常に重要だと思う(p157, p161-188)。
特に韓国の例は参考になりそうである(ところで、徴兵を逃れられることから南北融和路線を若者が歓迎しがちという指摘は、現在の韓国を考えると興味深いp181)。
というわけで、三浦さんの示されたデータから、徴兵制について私なりに考えると以下のようになる。
まずは、誰もが選挙権をもつ国家であれば、徴兵制は「戦争の抑止力」に「間接的」になりえる可能性をもつ。
しかし、即効性がない。戦争に慎重で、戦争以外の方法を模索する努力を続ける政治家を選ぶのに、手続き上の時間差が生じるからだ。
さらにいったん開戦してしまうと、徴兵制はむしろ戦争継続の便利なシステムと化してしまう。
また、お隣の国が一つの例だが、戦争を回避すること=徴兵回避が優先され、長期的には国益を損ねる国家間交渉に、国民が賛同してしまう動きを見せる可能性がある。
最後に大前提が一つ。あくまでカントの理念通り「自衛のための徴兵」であること。
三浦さんは、冷戦終結後の軍産複合体の肥大化によってシビリアンによる戦争が起きやすくなっている現在(p101、p106)、「血のコスト」、計算不可能、計量不可能な負担を、平等に国民に課すことが平和主義につながると説く。
一点だけ、どうしても疑問な点。
三浦さんが「正しい戦争」について定義を検討されているところである(p133-)。
日本では「すべての戦争を否定することが当たり前になっているが」(p133)って、どこでも戦争は否定することが当たり前ではないでしょうか。
戦争は、あくまで功利的に「必要か否か」(p148)で考えるべきで、正誤の問題ではないと思う(正しい戦争という発想、すごくアメリカっぽい)。
「正しい戦争」というのは形容矛盾で、私には「甘い唐辛子」と言っているようにしか聞こえない。
甘党の私は唐辛子が苦手だけど、中華料理を食べるときに仕方なく口に「せざるを得ない」のである・・・・って、戦争と比べちゃダメか。
さて、三浦さんの指摘が正しいとなると、今後の世界情勢、本当に不安。
たとえば、アメリカは「戦闘のアウトソーシング」化が進んでいる。
以前、イラクで、傭兵が民間人を誤射して殺傷した事件があった(ブラックウォーター事件)。
また、ドローンによる戦闘の「間接化」「劇場化(?)」が進み、戦闘に参加することで支払う「血のコスト」という計量不可能な負担を抱える必要がなくなっている(計算可能なドローン操作時間が、彼らの給与の根拠になるだろう。もちろん映画「アイ・イン・ザ・スカイ」のような倫理的極限状況が起こりえるかもしれないが、おそらくまれに違いない)。
一方、テロは徴兵のような強制性のない「志願兵」たちによる確信犯的な行動であり、志願しているために過激化する。
確かに徴兵制はかなり挑戦的な主張だ。
ただ、私たちや私たちの子供たちが戦争に行くかもしれないと考えると、私たちの選挙に対する態度は変わるはずだ(今の投票率の低さ!!)。
私たちが、私たちの代表を選ぶまなざしが、もっと真剣になる。
シビリアンが軍人をコントロールするのでない。
私たちが、そのシビリアンをコントロールするのだ。
三浦さんの提案は、私たちが平和の維持にコミットするためには、政治に真剣に向き合うこと、そのような態度は、徴兵制という荒業、「私事として戦争をとらえる」ことでしか引き出しえない、そこまで私たちの想像力は貧困なのだという厳しさが秘められている。
三浦さんの主張に賛同するか否かは別にして、このような議論が避けられることなく行われてほしいと、自分はともかく(あと20年もたてばでどうせ死ぬし)、自分の子供たちだけは(あ、他の御宅のお子さんたちもね)戦争に行ってほしくない私は切に願う。
三浦瑠璃「21世紀の戦争と平和 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか」
1700円+税
新潮社 320ページ
ISBN 978-4-10-352251-5