これは、ある大きな町のでっかい本屋で偶然見つけ、即買いしたもの。
いつも書いているが、私は南米の大河さんが苦手だ。
まず立ち読みできない。
だから、内容の大部さを予測できない。
紹介文が貧困で(←語弊ありますね・・・)、内容をほぼタイトルから想像するしかない。
しかも、ぱらぱらめくっていたら、本筋とは関係ないけど私の考えたかったことに触れていた、この本は買い!とか、ネットじゃ起きない現象です。
さて、備忘録的に。
本書の「生理学」は、健康な体の代謝やホルモン動態、呼吸循環機能についての学問ではなく、今でいう実験心理学、物理学的心理学とでもいうか、フェヒナーとかマッハなどの数値化された知覚様態の研究をさしている(p15、p48-59)。
ある本で読んだのだが、19世紀は「生理学」が文学者など、生物学者以外の文化人たちにかなり刺激を与えた時代だったらしい。
有名どころでバルザックが「結婚の生理学」というタイトルの小説を書いたりしている。
さて、ニーチェはどうか。
まず、彼がどれだけ熱心に生理学を学んでいたかが実証的に検討されている(第二章p35-47)。
丁寧に読書メモ、断片的な原稿、大学の教科などが検証されている。
ここだけでも、山本先生の誠実さが伝わり、本書の信頼性が高まる。
私はニーチェというと、道徳を刷新しようとした人、自分の「聖書」(=「ツァラトゥストラは語った」)を書こうとした人くらいの認識で、読んだ本も「善悪の彼岸」「偶像の黄昏」くらいなので、正直、詳しくない(お恥ずかしい)。
まず驚いたのが、初期ニーチェのもくろみ。
カント批判をしようとしていたんですね。
ご存じ、カントさんは私たちがものを認識するときに、時間や空間などの形式に縛られている、というか、その形式以上(以外)のものは「わかりません」とした人ですね。そして彼は、私たちが認識できる現象の向こう側は「モノ自体」としか言えないと結論づけました。
ちなみに、この「モノ自体」はなにか実体的なものと間違えられやすいというのが中島義道先生のご批判で、中島先生によれば「モノ自体」はイデアのようなものだというご意見でした(「観念的生活」 文春文庫)。
さて、二―チェですが、この「モノ自体」が本質、真理であり、それを追究するのが形而上学だとすれば、知覚心理学(彼のいう「生理学」)では「モノ自体」は不可知であり、そんなものは実は私たちの作り出した概念に過ぎない(p17)と結論せざるを得ない。
したがって、ニーチェは、生理学を根拠にして、形而上学の否定(p19)、真理批判(p23)をした、というのが本書のまず第一の結論です。
うん、面白い!
まま、カントも知覚に関する当時の「科学」に基づいて認識について考えたのでしょうから、ニーチェの立場は、ある意味、正しく「カント主義」なのかもしれません。
カントの議論を細かく研究している人たち(いわゆる「カント派?」)が教条主義になりがちな一方で、こういう別のアプローチをしている人の方が、かえって「カントっぽい」ことって、しばしばありますよね。
気を付けないといけませんね。
ところで、ニーチェのことが大好きで彼に関する本を2冊も書いているヤスパースも、真理は「複数」あると主張しているんですけど、ニーチェの影響でしょうか。
私は、ある精神分析派が「真理」という言葉を使うことに違和感があり、そもそも「真理って何?」というか、「何か絶対的なものがある」という考え方が気持ち悪く、ヤスパースのみならず、ニーチェの考え方、非常に腑に落ちました。
ところが!
ニーチェ、悲劇論を議論する中で真理的なものを持ち出します。
「真実の存在das Wahrhaft-Seiendeにして根源的一das Ur-Eine、それは苦悩するもの、矛盾に満ちたもの」(「悲劇の誕生」 p71)。あれ??
うーん、私の誤読もありそうだから、原点に戻って、ニーチェは真理(この世界の本当の正しい道理)批判をしたというより、カントの「モノ自体」(認識できない向こう側が「世界の正しい姿」という考え方?)を批判したかったと考えておくことにしましょう。
そして、本来、苦しいこの世界から脱するべく、現象として現れる(仮象Schein)のが私たちである。さらに、ある条件で私たちは陶酔Rausche状態になり、そして根源的一と融合するverschmlzenことができる、それが芸術だとニーチェは言っているのだそうです(p73-74)。
言い換えれば、個体化原理の破壊(私はこの私であることの否定)、忘我Vergessenheit、いわゆるディオニッソス的なありかたですね(p79)。
ニーチェにとって、形而上学なんかじゃなくて、芸術こそ世界の根源に触れることのできるものだったということになります。
なるほど、ハイデガーの元ネタなわけですね。
そして、この世界は本質的に苦しいんですね。なるほど、ヤスパースの元ネタだ。
途中で面白かった議論で、無意識についてです。
ニーチェは無意識性を「忘却」(p94)と考えていたようです。
一方、無意識といえばフロイト先生ですが、彼の考え方は、かの精神医学史家エレンベルガ―の分類では「一時的に意識的だったが、その後自動的となった心理機能」「人格の分離部分」(p99)に該当するでしょう。
このニーチェの無意識の考え方、私的には納得です。無意識に自律性をもたせる考え方に疑問を呈したのは、ほかのブログでご紹介しました。
うん、やっぱりニーチェ、しっかり読まないとだめですね。
また、もう一つ私的に面白かったのが、「芸術は個々の芸術家の能力でなく、芸術を生み出す能力の純粋な発揮そのもの」である(p96)というニーチェの考え方。
不正確かもしれませんが私なりの言葉でなおすと、芸術は芸術家の「独創性」の発露ではなく、「誰しも持っている」根源的なものへのアクセスが容易で、苦悩や矛盾に満ちた根源的なものを、私たちが生きているこの世界に受け入れられる強度に変換する能力を持っている人が行うものであり、そういうことが可能な人を芸術家と呼ぶということになるでしょうか。
さて、いよいよ後期ニーチェ、私たちが知っている道徳を刷新したニーチェです。
ニーチェは相変わらず、生理学と芸術について論じ、特にカントの判断批判で展開された議論が、美術鑑賞者の偏って静的過ぎると、芸術の創造者に議論を転換します(p131-133)。
これ、慧眼ではないでしょうか。ニーチェ自身が作曲までしていたこと、あるいは一般的に(?)音楽好きって、その仕組みを知りたがる(私もそうですが)ことと関係していますかね。
そして、芸術家の「誠実さRedlichkeit, Wahrhaftigkeit」(p138-149)の問題、そこを媒介にして、新しい道徳の形成(p150)、それも自分の能力を十全に発揮する、悦びに満ちた道徳、私自身さえ新しくなっていく、価値を守るというより新しく作る道徳、自立した徳へと議論が展開するということになります(p152,174,186,199)。
なるほどなあ。
キリスト教的なルサンチマンに満ちた法ではなく、貴族的な「君主道徳」って、なんだかナルシシスティックに思えたのですが、ニーチェが考え続けた芸術を補助線にすると違って見えますね。
ちまちま従前からあるルールに従うのではない。自分の能力をのびのびと発揮して、悦びとともに新しい価値を創造する、それは保守的に何かを守るというより、自ら形成するもので、法や道徳どころか自分自身さえ作り変えられていく。そして、そこには「真剣さ、正直さRedlichkeit」が必要なわけです。
単なる、「おれさー、いつか、ビッグになって、新しいロックを作ろうと思っているんだよねー。でさ、これからカノジョ、ちょっと飲みに行かなーい?」とか言っているような、自分の能力査定もしっかりせず、創造への「誠実さWahrhaft」に欠けている人物とは全く違うわけです。
この「誠実さ」はヤスパースもよく使いますが、キーワードですね。
これ、きちんと理解されていたのでしょうか?
ニーチェって、なんか「皮肉屋」なイメージですが、実はこういう単語を繰り返し使っていたって、知られているのでしょうかね。
そうであれば、「おれっちが第三帝国を作って、ドイツを新しい世界に冠たる国にして、おれっちが偉くなってやるー。おお、エヴァ・ブラウン、ちょっと飲みに行くか」な、誠実さのかけらもないナチスになんぞ利用されなかったのではないかと思うのですが・・・。
こんなことは、きっとどこかのエライ先生が指摘されていることでしょう。
それにしても、私の常なる刷新、私の自己同一性の放棄(!)という考え方の斬新さ(p152)。
私への誠実さ(p199)という、倫理性。
ニーチェ、なんて道徳的なんでしょう!
ちなみに、本書によれば、後期ニーチェの「アポロン的」概念は、「目の陶酔」になりディオニッソス的との対比構造がなくなるのだそうです(p190-191)。
いやー、ホントに勉強になりました。
おもしろくて、出張で出かけた往復3時間くらいの電車の中で読み終わりました。
こういう本ほど、売れてほしいなあ。
ちなみに、なんとこの本は博論が元だそうです。
若い研究者さんにどんどん頑張ってほしいです。
山本恵子「ニーチェと生理学」
2500円+税
大学教育出版 228ページ
ISBN 978-4-88730-780-3