親の影響で、めったに漫画を読まないのだが、本屋でなんとなく手に取ってしまった本。
何かのご縁でしょうか。
全部で六話。
第一話
私の「人生イージーモード」(p3)はいつ終わったのだろう。もう思い出せない。
ただ「生きて」「楽しく過ごす」ことができる時期は意外に短い。
私の場合、ただ「楽しい」期間が過ぎて、もうしんどくて辛い時期が訪れた後、役割をもつことで救われた。
しかし、役割が負担になることもあるだろう。
とりわけその役割を自分で選択したわけではなく、社会から押し付けられたものであれば。
主人公もそうだ。
彼女は自身の価値をまだ見つけられない。「若さ」とか「制服」だとか「JKであること」といった、まったく自分の意志と無関係な役割、それも性的な意味合いまでも勝手にまとわされた役割を押し付けられる。
そして、「そういうもの」に価値があると勘違いしている。しかし、そのことへの漠然とした違和感だけはある。
だから、「そういうもの」を、まだ暴力的にしか扱うことができない。
第二話
冒頭の文章。まるで詩のようだ。
かすかに先取される敗北と絶望(p25)。
確かに「歓び」とか「憧れ」などといった言葉だけで済む感情ではない。
男の子の視線の先にいた少女に向ける台詞。そして、その少女が返す台詞。
敗北と絶望を互いに、しかし、微妙にずれた形で抱える二人。
そんな微妙な感情は男には分からない。
最悪にも、分かっていないということさえ、分かっていない。
第三話
自分の意志と無関係な役割を、自分の価値であると勘違いすることで起きた、自分に対する苦しい暴力性の物語。
第四話
カンザスの田舎に住むドロシーの現実もモノクロだった。そして、ドロシーの夢も美しい色がついていた。
でも夢は悪夢かもしれない。
そして、「やっぱり家が一番」なのかもしれない。
第五話
少女から見ると、男は自由に感じるのだろうか。
皆と同じであることを心地よく感じていたり、そうであることを何とも思っていないように見えるのだろうか。
バカなことをしていても、それがそういうことをしている俺という記号として回収されてしまう可能性を、分かっていないと思っているのだろうか。
確かに、男は、相手に対する配慮など考えてもいない、しかしまっすぐな言葉をかけることができるかもしれない。
でも、そのようなことが許される時期は、男だって短い。
第六話
女性であることは「私たち」であるということなのだろうか。
私は男だから的外れなことを書いているかもしれないが、「前進している君」は「私たち」ではないだろうと私も思う。
というか、「私たち」である必要もないと思うが、それは怖いことなのだろうか。
ただ、なんだかいつの間にかおっさんになった私でも言えることは、<「人生イージーモード」でなくなったこの世界>は確かにつらいが、そこから抜け出せれば、また違った「私たち」のあり方に出会えるだろうということだ。
あるいは、思春期の「前進の君」に言いたいことは、慌てて前進せず、つかみかかろうともせず、向こうから自ずとやってくる役割と価値を待ちなさいということだけだ。
鳥飼茜「前略、前進の君」
小学館 160ページ
920円+税
ISBN 978-4-09-179263-1