備忘録。

 

 罪悪感について考えたくて購入したのだが、謝罪についての本だった。

 

 人は本当は悪いと思っていなくても、とりあえず謝ることがある。

 それは謝ることが対人関係をスムーズにすることを知っているからだ。大人の知恵というものである。

 これは認知心理学で「道具的謝罪」と呼び(p6)、6歳ころから使い分けをしているらしいという(p6)。

 そして本書の目的は、そのような子供の道具的謝罪のありようの要因、識別の方法を検討することである(p3)。

 

 

 <印象に残った点

 

 認知プロセスが単純な方が、かえって当人の意図が不明確にみえ、認知プロセスが複雑な方が、当人の意図、本書なら「自発的に謝りたい」という思いが明確に浮かび上がるという。

 

 先行文献の紹介:謝罪は三段階の認識を経て行われる。

 因果関係の認識 → 結果の有害性の認識 → 個人的責任の認識

 そして、それぞれの段階で謝罪しないことを、否認、正当化、弁解と区分する(p3-4)。

 

 確かに弁解はある程度の複雑さ、つまり別の因果関係で説明し、有害性を否定した上で、責任がないことを証明してみせることが必要だが、正当化はとても単純な理路でできてしまうかもしれない。

 

 謝罪と印象・親密度の関連についての研究は日本だけらしい。

 一方、「罰を回避するため」に道具的謝罪をするという仮説は海外文献も多くあるらしい(p13-14)。

 

 相手への印象(嫌われたくない)、親密度(親しい人には礼儀ただしくありたい)を、そもそも謝罪の因子として思いつくあたりは、確かにいかにも日本人らしい気がする。

 

 人は謝罪にたいして「回避」や「応報期待」を考えるが、一方、最近は「許容」が議論されている。

 たとえば「加害者の謝罪が被害者の共感を促進し(略)許容」に向かう(p87)、あるいは「謝罪で後悔を感じ取ることで許容」(同)という仮説があるのだそうだが、当然、謝罪したからといって人はそう簡単に許容するわけではない(p87)。

 

 許容は「相手を赦した(赦してやった)」というある種の権力性がついて回らないか。

 あるいは「赦してもらった」という負債感は消え去らることはないだろう。

 デリダの主張すつような「相手を赦した」ことで「相手を赦した」ことを忘却するとすれば、それは「回避」とどう違うのか。もし忘れないとすれば、それはどういう意味で「許容」なのだろうか。

 また負債感は決して消えないとすれば、それはやはりある種の「復讐」ではないのか。

 これは私の宿題にしたい。

 

 

 さて、私がもっとも知りたかった罪悪感だが、本書を読んでぼんやりしていた定義が少しはっきりした。

 手元の辞書では罪悪感を「悪いことをしたという意識」としているが、私はそれではまったく不足だと思っていた。

 本書を元に考えると「悪いことをしたという認識と、それが他人に害をなしたという認識と、自分への非難」という三段構えになるだろう。

 「悪いこと」をして他人に危害を加えたという意識を持つことで喜ぶのが定義上、サディストであり、そうであれば「悪」「害」の意識だけでは罪悪感の定義には不足だ。

 そうすると、もっとも重要なのは「自己非難」である。

 

 人が誰かを非難する時、誰かがある出来事の原因でかつ有責だからと普通は考えるが、そこでわからないことがいくつか。

 まず因果と帰責は同じなのか。

 また有責性が非難の要因の一つだとすると、責任は「責めを負う」、つまり「非難されることを負う」ということであり、責任と非難が意味的に循環している。

 意味的循環は珍しいことではないが、どうもしっくりこない。私の考えが雑なだけかもしれない。

  

 もう一つ、罪責感の表現の仕方もヒントになるだろうか。

 一つは「すまない」(北山修、橋本雅之「日本人の<原罪>」講談社現代新書)。

 これは済むことがない、終わらないということになる。

 永遠に続く拘束感、絶望感といえるだろうか。

 

 もう一つは「申し訳ない」。

 これは言い訳ができない、弁解できないであり、私なりに考えると、出来事の正当化を説明できないという点で「現在から将来へ」、しかし、出来事は「過去」なので時間性は二重にあるということになる。

 木村敏先生はこの「申し訳ない」を「取り返しがつかない」と表現なさったが、なるほどこの表現は一見、過去にだけ向いているようで、よくよく考えると「この状態の解決の目途が立たない」の意も包含しているように感じる。

 

 最後に「ごめんなさい」があるが、これは罪責感というより謝罪になる。

 この言葉は「免じてください」であり、現時点から、将来、許容してくれという要請で、可能性に過ぎない点で自由さがある。

 

 

 ここまで書いていて思いついたが、謝罪は罪責感があるからこそ出てくるというのが、本書の前提だった。

 人は「申し訳ない」と思うから「ごめんなさい」と言う。

 ところで「申し訳なさを感じることがありますか」と質問すると、時に「はい。だれそれに『ごめんなさい』という気持ちなんです」という方がいらっしゃる。

 この方の時間感覚は、「申し訳ない」に比べると「現時点から将来」であり、かつ「期待」になっているといえるかもしれない。

 

 宿題がまた一つ増えた。

 

 どのような分野の本も刺激になるものだ。

 やっぱり読書は面白い。

 

 

 

田村綾菜「謝罪と罪悪感の認知発達心理学」

ナカニシヤ出版    102ページ

4600円+税

ISBN 978-4-7795-0695-6