昨日も日常的に使う言葉と原初的な言葉の意味に隔たりがあることを提示しました。今日もその路線で「良識」と「良心」という言葉が本来どのような意味に定義されているのかを提示したいと思います。「良識(bona mens-bon sens)」とは、原初的には人類に普遍な共通感覚、共通観念を根拠とする全人類的な思考能力。理論的、道徳的、宗教的態度(本能)とされ、デカルトは「方法序説=理性を正しく導き諸科学における真理を探究するための方法序説(Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences)」の冒頭で「良識=ボン・サンス(bon sens)」は「この世で最も公平に配分されているものである」と宣言します。つまり、「良識」とは中世から近代も含めて人類にアプリオリ(先験的に)に与えられている本能のようなものだということです。それがアリストテレスの時代には真理に向かう論理学的な理論的能力であったり、中世スコラ哲学の時代は神という真理へ向かう宗教的信仰能力であり、近代デカルトにおいては確実知に向かう思考能力だというわけです。ここで重要なのは「良識」というものは、そもそも人間にアプリオリに与えられている能力だということです。この時点で我々が日常で使う良識の意味とは全く異なる位相にあることが分かります。日常的にいわれる良識とは、「彼は良識がある」という風に正しい価値や見識をもっているというような文脈で使われ、定義するなら「妥当性」ということになるでしょう。しかし、これは逆説的に良識のない人間もいるということを意味するので本来的な意味の「良識」とは異なるのです。「良識」とはあくまで人類全体に平等にアプリオリに与えられている能力なのです。だから「良識」は、人類が共有しているという点で共通感覚といわれるのです。いわばデカルトが「方法序説」で宣言するように人間の諸能力の大前提なのです。そして、その「良識」という平等に与えられている能力を正しい確実知の方向に使えとデカルトはいうのです。このような万人に共有されるという発想である「共通感覚(koine aisthesis-sensus communis)」とは、そもそもアリストテレスが定義した言葉です。アリストテレスは人間の五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)を合理的に統合するのが「共通感覚」だと考えました。アリストテレスのこの直感認識のユニークな部分は、カントの認識論の位相を既に凌駕しているところです。単一の感覚による識別や判断だけでなく、そこに他の感覚の識別や判断を織り込んで総合的に人間は識別や判断をできるのだというのです。例えば、白い飴と黒い飴が対象としてあった場合、視覚によって白と黒の識別がされますが、同時に味覚によって甘さの度合いの識別や、触覚による肌触りなどの識別も行うことが可能なわけです。そして白い飴と黒い飴の識別は視覚による識別や判断だけではなく他の直感判断も加えられるのでより妥当性を増すというものです。この五感の相互の統合的な識別や判断の能力の発揮を根源的に許しているのが「共通感覚」というものなのです。いわば、統合したり様々な異なる能力を結びつける基礎的な能力のことです。もうこの時点で、日常使う共通感覚とは全く違った意味だということが明らかですし、この「共通感覚」を基礎にした「良識」も当然日常いわれる良識とは似ても似つかないものだというのが明白でしょう。また、余談になりますがアリストテレスの「共通感覚」は、中世スコラ期にマルクス・トゥッリウス・キケロによって解釈を引き延ばされます。安定した時代の維持が当時の世界の要請ですから、キケロは「共通感覚」を社会システム内部の人間に「共通(communis)」な「判断力(sensus)」という意味に変化さます。つまり、キケロの解釈がデカルトの「良識」に繋がっているのです。一方、これは「コモン・センス=常識(Common Sense)」という言葉へも繋がります。「良識」、「常識」いずれにせよアリストテレスの「共通感覚」を根拠とし、キケロの「判断力」というものを掬い取った言葉なのです。「共通感覚」、「判断力」、「良識」、「常識」いずれにも共通するのは人間に予めアプリオリに与えられている能力だということです。デカルトは「良識」はアプリオリに人類に与えられているのだから、正しい判断をするためには「良識」という能力を正しく使うべきだというのです。これがいわゆる方法的懐疑、懐疑する精神です。この懐疑によって発揮される「良識」という能力のあり方は、真理への態度として確立され近代以降の学問態度の基礎姿勢になるのです。一方、キケロがいった社会の構成員全員がもっている「判断力」という発想は、「常識」という言葉に分岐します。「コモン・センス」といいましたが、スコットランドのトマス・リードを中心に「共通感覚」を「常識」として捉えようという集団が現れます。これを「スコットランド学派(Scotch school)」と呼び、彼らのいう「常識」を中核とした思潮を「常識哲学(common sense philosophy)」といいます。哲学の世界でいうイギリス経験論に反対するグループが「スコットランド学派」だということができます。ロック、バークリー、ヒュームというイギリス経験論は、昨日も説明した帰納法の重要性を説きます。全ての判断や真理というものを個々の経験(事例やデータ、実験)の総体として構築すべきだと考えるわけです。しかし「共通感覚」の理念からいえば、この経験則に頼る方法は怪しいのです。そもそも万人にアプリオリに与えられている能力があるのですから、この能力を発揮する方が確実かつ合理的なのです。だからリードは、人間の本性(根源的なあり方)に疑わしくない根本的な原理を「共通感覚」のようにアプリオリに与えられている正しいものと判断します。それが数学や論理学、因果律、客体の存在、主観の存在、善悪の判断などです。リードはこれらは、なにも経験的に検証しなくとも正しく万人に「共通感覚」として備わっているのだから、ことさらに疑うべき理由はないとしたのです。そして、これらのアプリオリに備わっている能力は社会の構成員全員が有しているのだから、この能力をもって現実の問題や科学的な解釈にあたれば良いという姿勢を「常識哲学」と呼んだのです。「良識」はアリストテレスの「共通感覚」から様々に派生はしていますが、いずれにせよ共通しているのはアリストテレスの定義したように、アプリオリに人間に存在している能力だということです。日常では良識を「難しい問題に挑んで解釈できる能力や判断力」だとか、「教養のある人」というような意味合いで使いますが、根源的にはアリストテレスの「共通感覚」というものに由来するのです。さて、「良識」というものがどのような言葉なのかはこれで分かりました。次は「良識」に似た意味で普段使われる「良心」という言葉です。「良心(consciencce-Gewissen)」とは、これは宗教的、倫理的な意味合いを含みます。悪事を行ったときの「疚しさ」や悪事への「自制」、悪事に関与しなかった「達成感(やすらぎ)」これらの根拠となるのが「良心」というものです。簡単にいえば「良識」が経験に頼ることがないのに対して、「良識」の下部構造に位置している「良心」というのは経験的、肉体的、具体的なものとなります。先に述べた個々の事例は、人間が「良心」を知るときです。ということは、「良心」もまた「良識」のように人類普遍にアプリオリに人間に与えられている正しいことになります。しかし、注意せねばならないのは「良心」の場合はあくまで道徳的な善悪の判断の根拠なのです。当然、哲学や数学など確実知の下部構造にある道徳や倫理というものは確実性に欠くのです。キリスト教の良心もあれば、イスラム教の良心もある。当然ギリシャ的良心もあるのです。それが予定調和的に一致することはまずあり得ないのです。だから、この「良心」とは大雑把な意味で「善悪の判断基準」と理解され、そのまたさらに上の根拠に宗教的信仰の必要性が要請されるのです。例えば、酷いことをする人を見て「お前はそんな良心に反することを平気にして心に良心がないのか!」と詰問しても、相手が自分と同じ宗教やルールを信仰していなければ「良心もあるし良心にも反していない」といわれれば、それは確かに論理的に成立するのです。だから、宗教的信仰の時代が終わった近代以後は法というものが「良心」の根拠となったのです。しかし、この法も無理に人間が創り上げたものですから、その根拠は曖昧な慣習や仕来りに由来するもので絶対的普遍性はありません。同時に慣習というものが宗教的信仰の所作に由来しているので宗教的信仰の時代とそうは変化はないのです。だからこそ国際法という人類普遍の「良心」の根拠を創り上げても、誰も守ろうとする者などいないのです。さて、「良心」の曖昧さを示している哲学の世界の事例があります。それがカントの「良心の声」です。これはルソーの「エミール」に喚起されて、カントが「実践理性批判(Kritik der praktischen Vernunft)」として提唱したものですが、非常に「良心」のあり方の核心をついています。カントは人間は自然的な存在者ではあるが、同時に理性的な存在者であるとします。つまり、アリストテレスやデカルトの「良識」のようにアプリオリに思考する能力をもっているので、自然的な存在者である動物と違って思考する能力が予めあるから理性的だというのです。ここでいう自然的とは動物がそうなように、常に欲望のままに生きているということです。考えないということです。逆に理性的とは思考するということです。カントはこの理性的存在様態は二つに分かれるといいます。ひとつは「純粋理性批判(Auflage der Kritik der reinen Vernunft)」で導かれるように主観が対象や自然を認識する能力、すなわち「純粋理性(reine Vernunft)」です。そして、二つめが「実践理性批判」で導かれる「実践理性(praktische Vernunft)」です。実践理性というと難しいですが、カントは「道徳法則(moral law-Sittengesetz)」に依拠する判断行為や意志を実践理性と呼んだのです。カントはそもそも確実な理性を人間が手に入れることが自由を得ることだと考えたのですが、純粋理性も実践理性もいずれも欠けてはいけないのです(判断力も)。カントにとっては、いかに理性をもって動物のような自然的なあり方から抜け出すことが可能かというのが問題だったのです。これは逆にいえばカントは通常の人間は自然に支配されていると考えているということです。さて、人間が純粋理性をもっていた場合は自然を正しく認識し、その自然の人間を支配している法則を見抜きます。それが例えばアイザック・ニュートンの「万有引力の法則」です。しかし、カントはこのレベルではまだ人間は自由ではないといいます。純粋理性によって自然の罠を見抜いたところで、結局のところ自然法則は人間の手によって変更できないのですから自然の支配下にあるのです。そうなると完全な自然からの自由を勝ち取るための方法はひとつです。自然法則ではない法則に従って行動し意志をもつということです。この場合、当然自然法則に反するような行為を選択することもあり得るのです。例えば、道路の真ん中で子供が無邪気に球を拾おうとしています。子供の後方からはもの凄いスピードでトラックが迫っています。このとき人間はどうするでしょう?純粋理性によって自然法則を認識します。「子供が道路の真ん中で球を拾っている」→「後方からトラックが迫っている」→「このままだと子供が轢かれてしまう」→「助けに入れば自分が死ぬかも知れない。少なくとも無事だとは考えにくい」と純粋理性の理性による自然法則の認識はこうなります。しかし、純粋理性の出した結論を採用するということは目の前の子供を見捨てることと、自然法則に支配される自分を意味します。こういうときカントは実践理性の能力発揮を主張するのです。つまり、自然法則とは違う道徳法則に基づく実践理性をもって自然法則の支配を打ち破るというのです。これをカントは「自己のうちなる良心の声を聞く」と表現しますが、言葉のように自分自身の以外のなにものも根拠としないあり方をするということです。となれば、子供を自分の危険を顧みず助ける行為が正当化され、それは自然法則の支配にある行為ではなく自分の意志に基づく自由な行為だということです。道徳法則に基づいた実践理性といいましたが、カントはこの道徳法則という意味に宗教的な倫理や道徳をみていません。だからカントは「自己のうちなる良心の声」という言葉で表現するのです。カントはここでいう道徳法則を完全な自己意志決定を可能とする正しい法則と捉え、あらゆる自己意志以外の根拠や目的を排除します。しがらみだとか、習慣だとか、人間関係、損得などの自分の意志に介入してくるものを全て排除したものが、実践理性であると考えたのです。いわばカントのいう道徳法則とは、純粋理性がアプリオリに人間に備わっているように、自己意志を可能とする根拠として自分のうちにアプリオリに備わっているのです。人間の能力を可能とするアプリオリな「共通感覚」というアリストテレスの理論をカントも理論根拠として採用しているのです。そして、このようなあり方が自然法則の支配から解放された自由な人間のあり方だとカントは考えたのです。だからこそ、カントは外部的な要素を排除するという意味で「自己のうちなる良心の声」というのです。このように言葉というものには必ず歴史と意味の連鎖があり、決して無自覚に使うものではありません。自分の表現したい事柄に対する言葉として妥当かどうかをまず論証せねばアリストテレスの「三段論法」すら成立しないでしょう。「良識」と「良心」という比較的簡単な言葉も、その内部に入るとその意味の無限の連鎖があるのです。