ブログ開始から2夜にして、さあ、トリュフォーの映画を観てしまった訳だ。。
映画を観たというその事実だけを映画のタイトルと監督の名を呟く事で留めておこうとしてきた事を解き、いよいよ、ほとんど羞恥を晒すべく、語る事を選んだ訳だが、規則として観た映画についてはなにかしら語るべきだと言う事を設けた訳だ、その制約を打ち立ててしまった事などすっかり忘れてしまい、馬鹿にも、トリュフォーの映画を、よりにもよって、アデルをだ、観てしまった、この戦慄するしかない美しい映画についてなにを語れるだろうか、いや、

冒頭の霧の夜から映画が終わるまでずっと永続するのは映画のなかに太陽が不在するその淀んだ色合いであり、この映画のなかにもしも天気だの色だのが存在するのでればそれは紛れも無く唯一、主人公であるアデルの瞳であり肌であり、なによりも感情だろう。夜霧のなか、到着した小舟から人々が徐々に浅黒く階段を昇ってくる光景を数秒過ぎて、映画はアデルを映すのだが、その瞬間のアデルの肌の場違いな発光はなにも、映画の照明装置の写し鏡だとかではなく、この若い乙女が単身、降り立ってはいけない地に降り立った瞬間の罪の発光そのものだった。
だからこそ、アデルが階段を昇ってくる光景はこの映画に太陽が昇ってきたその瞬間の美しい発光だったのだ。
critique
既に上陸している船員の男の闇に馴染んだ手の位置と同じ高さにあるアデルの肌の色がまったく違う明度で発光しているのがわかる。

(ここでまず思い出したのは、東京公園の小西真奈美が化粧をしに階段を昇っていき、そしてまた降りてきたその美しい光景だ、絶対に踏み込んではいけない場所に女の意志が肉体を引き連れながら移動しなければいけない時に、なぜ階段という緩やかでそれでも確かに急な坂を映画はこんなにも執拗に撮り続けるのだろう。)

それにしてもこの冒頭で笑ってしまったのは、なにも誰かがジョークを言っただとか映画のなかで紳士が転んだとか、物語が笑いを誘発したとか、映画的な運動がそのトリックが術後の経過の意識的解読を唐突に呼び起こしたとかではなくて単純に、太陽だと思えたその女優の顔を数十秒観てみれば、女優の顔がどこかあまりにも無垢であるゆえに、とぼけた表情に見えて、それも見るからに生意気そうに佇むその姿に笑ってしまったのだ。
このアデルという女性の我が強い事とは無縁に、恐喝的な女性の脅威として散らばるのではなくどこか強張りも狂気さえも可愛らしを持っている事が、この映画の物語るアデルという女性の運命の悲しさを表してしまう(愛の狂気に至る女の肉体の運動で思い出すのは増村の妻は告白するの若尾文子だが、またあれとは違う可愛げのある悲しさなのだ)

この段階において、この映画でこの女優が、ただの美人では済ましてはこないだろう期待をその一瞬で予告して見せてはいた、が、

この映画がフィルムを息吹けば息吹く程に、こちらは咳き込み勇んで唸るしかない震撼の連続であり、それははじめからこの女優に惚れてしまったのだから、まっ先にこの映画に許されていたしこちらもこの映画を許してしまっていた、映画を女優で観てしまうという気持ちの良い状態が安息で流れるのだ、映画を、女が美しいというだけで観れてしまうという厄介な癖が私にはあって、この映画はまさしくその領域をクリアしてしまっていたから、逆に、映画そのものをまったくの贔屓なしに観る事はできなかったのかもしれない(それはトリュフォーが監督しているという事を知っている時点で少なからず意識としてあるだろう)、

しかしだ、女に夢中でいようが、映画はもっと強い誘惑でこちらを誘ってくる、つまり、この映画が進むにつれてもなおも一向に現れない強い太陽の事だ。
それこそ冒頭の霧の夜からだ、永延してみせる太陽光の発光に一切この映画を関与させない事の素晴らしさに女に夢中な呆れた視線が嫌でもそれを発見する。
この映画には太陽が存在しないのだと。
それはどんなに映画を観る目が贋作製造である輩にだって気づけるだろう違和感であり、女が何度夜を超え朝を迎えても、女が身を置く場所がイギリスという国であるからだとか、まあ、いろいろ考えはするものの、ついにいよいよ、映画が終わるまで太陽と呼べる太陽がこの映画のなかには出ては来なかった事の歓喜はこの映画の光の所在を示してくる。

もっとも記憶違いの俺の記憶に訊ねればトリュフォー自身が「太陽の光を撮るくらいなら。。」そう言っていた男のようにも記憶しているし、単にそうした側面の乱用だったのかもしれないが。。。(トリュフォーの映画に太陽は映っていたか?、おまえは答えられるか?、答えられない)、そうした了見はすべて無にして、この映画において、強い太陽が撮られていないという美しさは
、なぜなら、アデルの瞳こそがこの映画で撮られつづけなければいけなかった唯一の太陽であり、アデルの感情こそがこの映画のなかの気候であり天気であるからだ。

物語的にはユゴーの次女であるアデルが一人の軍人の青年をただひたすらに愛し、その愛の強度のあまりに、最終的には精神すらその愛情で破戒してしまうという話である。

困った話だ。

だからこそ、アデルの瞳の太陽が、狂気に瞳孔を開く寸前まで映画のなかで輝いている事に感動したのだ。
ある瞬間までは、このアデルという美しい乙女がその肉体を移動させるのが、下宿先と、下宿代を送ってくるユゴーの手紙を受け取る郵便局と、詩を綴るための紙を買いに行く書店だけだった。

女がなにかの目的を孕んで身体を動かし移動するというその事自体が美しさや狂気や滑稽さなどのどの領域にも転がってしまう危険性があるからこそ、トリュフォーはワンシーン毎に重要性がない人物との接触までの時間こそを丁寧に撮る。
いや、人が移動するという事を撮るというのはあまりにもリスクがある事なのだ、本来は。
(ただ、意識なく男が舗道を歩くという映像が孕む恐ろしさ。)

移動する先々で撮らなくてもいいはずの接触までもを撮るのは、例えば、郵便局で手紙を受け取りそのなかの為替を現金に変えるシーンにおいて、まず、アデルが郵便局の扉を開いて姿を現し、その手紙を受取る、その手紙をその場で開けて、その手紙を読む、次に、その手紙とともに送られた為替を現金に替えて受け取るというその一連の仕草を撮る時に、その動作すべてをなにも撮る必要はないはずだ、もっと乱暴に断絶していいはずなのだけれど、この映画はそれをしない。

それはこの映画の物語が感情が現状が彼女が移動する事でしか新たな場所や仕草に移行する事ができない宿命のなかにあって、この女が移動しその先々で行う行為はそのまま映画の伝達であり、彼女は映画を運んでいるのだ、映画の運び屋そのものとして、観るものを映画に連れ回す、その些細な運動性こそがこの映画では感動的であり、その丁寧な運動の捕獲は、郵便局がそのままその場で開け放たれた手紙そのもののように、郵便局全体がまるで便箋のように機能してしまう恐ろしさまでもを造り出せた。
手紙を開けたアデルの姿とともに手紙のなかのただの文字であるはずのユゴーの感情がそのまま画面のなかに停留し蠢くあの瞬間の反復は、最後まで娘の帰りを逃亡先の島で移動する事無く待ち続けるユゴーの不動性に移動しつづけるアデルが触れる事でしか起きない美しさだった。
役者が演じる事無く終わったユゴーの透明な存在は、透明なままに強烈な色で映画のなかに存在していたが、まさにアデルが父の名によって苦しめられるその亡霊性で映画のなかに存在していたのだ。

ユゴーという姿を見せてはいけない者としての不動と移動のやり取りがあるからこそ、アデルが愛の狂気でついに触れてしまえる距離にまで近づき追ったあの軍人の男の、見えるその姿の軽薄さと残酷な暗がりさが際立つ。
アデル以外の映画のなかの暗さと見分けもつかなくなるような光の不在の保有者としてのこの男の動きは、まったく生の動きを伴ってはいない、この男がやたらといろんな女の元へと移動するのだが、彼の移動に関してはこの映画は乱暴な断絶でもって撮ってしまう。
彼の移動する身体は愛の強度も意志もあったものじゃないから、女の元へほとんど瞬間移動でもしているかのように撮られる。
トリュフォーの映画において女好きの男が主人公の恋愛日記という映画があるが、あの映画での男の移動とはたぶん、あまりにも違う撮られ方をしているのではないだろうか。

この男が他の女と触れ合う光景を見つめるアデルの狂気的な移動を味方につけてはじめて、この男の肉体の移動もかろうじて映画のなかで動きはじめる。

移動するアデルと女の元に死ぬように止まっている軍人の男とが衝突するシーンで、一際素晴らしいシーンは、アデルが紳士姿に扮装までして壁を上り降りて、軍人のパーティに忍び込み、庭を抜け、透明性のあるガラス性の洋館のなか、二階の奥で女を口説く軍人を探し、いろんな客人に訊ねてまわるアデルの姿を、ずっとその移動する姿を撮り続けるシーンだ、壁を登り降りて庭を通過するアデルの美しい扮装姿とその肌はさっきまでカメラの目のまえに居たのに、軍人に到達する時にはあまりにも小さなフォルムになってしまっている、彼にいよいよ辿り着いて、彼に手を引かれ再び庭に引き戻される時に、アデルの顔がわかるくらいの近さで映画はアデルを再び撮る、そのまま、二人の愛が終わってしまう墓地へと二人は移動してゆくのだけれど、男に扮装した事ではじまったこのシーンは、別れのキスで終わる。



移動に際して映画という証明者はどこに留まりどう去るのか、女を馬車に乗せたり、歩かせたり、壁を超えさせたり、
頭の闇の波止場から馬車で女が移動してからというもの、映画は一度たりとも動きを止めない。

$critique

この真に感動的なフランス映画の魅惑について「一人の女が失恋をしその傷みから逃れるためにほとんど昏睡的な躍動で病的にいくつかの男と恋にも満たない関係に逃げ込み、その先に自分探しの旅へ出発し...ついに...」というような、それこそ一歩間違えればただの数時間しか保たない錠剤のように量産される物語を孕んでいるにも関わらず、いや、ほとんど純粋な程にその事しか語ろうとしていないにも関わらず、なぜにこんなにも男の自分が感動させられたのか。。。

この「林檎の女王」という名のおとぎ話に現実が打ち勝つかのように美しい映画は日本の劇場では未公開にも関わらずだ、「彼女は愛を我慢できない」という邦題でしかもDVDパッケージにはヘアのフォトを使用されるというあまりにも酷い形であったとしても、DVDとして上陸しておりレンタル屋の片隅に置かれている。
とりあえずはその事を喜ぶべきだとは思うが、
ただ、「シルビアのいる街で」のようにDVDのパッケージ自体に称賛の「戦慄した」というような言葉が飾られている訳ではないし、店舗によっては「エロティック」コーナーにでも置かれてしまうかもしれないという大変な危機を帯びてしまっているのだ。

ヴァレリー・ドンゼッリというこの女性監督は主演、脚本、衣装までこなしてしまう訳だけれども、まず、この映画の神聖さは、女という存在のそれこそ死に至る病である恋に今にも死んでしまいそうな女の自明をいかに露骨にそれこそ壊れそうな薔薇の花のように濃密に危機的に映さないようにしながらも、そのもっとも恐ろしい女の姿の場所まで映画を連れてゆくかという戦いである気がした。

その不可能を可能にしているのが、監督としてフィルムのなかに在る彼女の力ではなく、女優としてフィルムのなかに居る彼女の佇まいにあるように思えた。

監督と主演を同時に行う事はできる限り回避した方がいい、と、いくつかの映画を観れば思うのだし、逆に、いくつかの映画を観れば、監督と主演を一人の存在が行ったからこそ到達できない映画がこの世にはあるのだと知らしめてしまう映画もある。(つづく)