男性マゾヒストの方の中には、

女装して(女性として)女王様に責められるプレイを好む方が結構います。


私自身は女装経験はありませんが、

その願望はとてもよく理解でき、そのプレイにも魅力を感じます。



ただ、その願望がどこからくるのか、

いまだによくわからない点があります。


考えているうちに、袋小路に入り込んでしまうというか、

堂々巡りをして同じ場所に戻ってしまうというか。



私の妄想の一つ(というか核?)として、

「私(男性)がサディストとして、女性としてのマゾヒストの自分を責める」

というものがあります。

自分がどう責められたいか、というのは自分が一番わかっていますから。


もちろん、現実には不可能ですし、

第一、鞭で相手を打っている自分がその鞭の痛みを感じる・・・

となったら、プレイどころではありませんので。



ですから、先の妄想のサディスト、マゾヒストどちらかを選択した結果として、

現在マゾヒストの自分がいる・・・

そのように考えているのです。


私だけでなく他の人も、サディストかマゾヒストか、というのは

この選択の結果に過ぎないのではないか?

そんな風にも考えられるのです。



と、ここで疑問点が出てきます。


自分(男性)がサディストであることを選択し、

マゾヒストの女性を(自分自身を投影して)責める、

というのは特に矛盾はありません。


ですが、自分がマゾヒストの方を選択した場合、

それを責めるのは、(自分を投影した)男性でしょうか?


普段は普通に女性と性関係をもっている男性で、

女装した時は女として男性から責められたい、という方も

実際に結構います。


でも私の場合、やはり女性に責められることを望みます。


この 「矛盾」 が先に書いた、袋小路であり堂々巡りです。



となると、最初に書いた 「妄想」 (という仮定)が間違っていた

とうことになるのでしょうか?




まあ、勝手に妄想して、勝手に矛盾が生じて・・・って

他人にとっては本当にどうでもいい 「独り言」 ですね。

「こいつは俺の女だ。この世でたった一人の俺の女だ。

だから、こいつとお袋にはどんな迷惑をかけたっていいんだ」



私はこの台詞がとても好きです。


映画 『麻雀放浪記』 の中で、

鹿賀丈史扮する"ドサ健"が、自分の女(大竹しのぶ)を"カタ"に金を借り、

大博打を打つ場面で言う言葉です。

(原作ではどうなっているのか、読んでいないのでわかりません)


戦後の混乱期に博打の世界でタフに生きる男が、

誰の力も借りず、誰の助けも受けない男が、

唯一甘えることができる、わがままを言えるのが 「自分の女」 です。



女性はどう思うかわかりませんが、

私には、これ以上ない 「愛の表現」 に聞こえます。




「あと10センチ背が高かったら、棚の上のおやつに手が届く

あと10センチ背が高かったら、ヒールを履いた女の子とデートできる

あと10センチ背が高かったら、嫌な奴を見上げずにすむ

でも、あと10センチ背が高かったら、僕は今踊っていない」



森脇真末味の漫画の中に出てくる歌です。

( 『緑茶夢』 か 『おんなのこ物語』 に収められている短編)



女子高に通う主人公は、周りのキャピキャピした雰囲気に馴染めず、

また、大学受験を控えて成績も上がらず、落ち込んでいます。


そんな時、中学の同級生だった小柄な男の子が訪ねてきます。

彼は高校へは行かず、劇団に入っています。

パントマイムの勉強のため海外に行くことなっている彼は、

劇団仲間とキャンプファイアーをしてる公園に主人公を誘い出します。


そこで彼が踊りながら歌うのです。



この場面を思い出すと、いつも涙が出てきます。


私も、何かが 「10センチ」 違っていたら、いや 「1ミリ」 でも変わっていたら、

今、このブログは書いていないでしょう。




※特に映画を見直したり漫画を読み直したわけではないので、

文言は多少違っているかもしれません。

前々回のエントリーに対して、

かなり手厳しいご意見を頂きました。


その方が指摘されたことと、私の受け取り方が

一致しているかどうかはわかりませんが、

思い当たる点というか反省すべき点があります。



もともと「許されるなら・・・」の前半部分は、

かなり前に書いたまま、エントリーせずにいました。


エントリーしなかった理由は、

一つは「人を殺す」ということを書くことに躊躇いがあったこと、

もう一つは「結局何が言いたいのだ」ということが不明確であったことです。



最近、尖閣諸島映像の流出問題がニュースで盛んにとりあげられました。

それに関するテレビ局の街角インタビュー?のようなもの、

およびその回答の扱い方に、私は違和感を感じました。


それは、質問が曖昧で、質の違う答えを導いている

ということです。



同様の違和感を私は死刑制度に関する議論にも感じていました。


死刑制度については、以前からいろいろ考えていたことがあり、

いずれ現時点の考えをまとめてみたい、

それに対してほかの方々の意見も聞いてみたい、

と思っていました。


ただ、かなりデリケートな問題なので、

やはり、いきなり切り出すのを躊躇っていましたので、

以前に書いていた「許されるなら・・・」を持ち出した次第です。



今思えば、

あらかじめ、観念的というか漠然とした例えを述べておいて、

ある程度の「言い訳」にしようとする意思があったのだと思います。


そのために考えの浅い内容になったというか、

最後の結論めいたものがあった上で、文章を再構成した形になったことは

否めません。



その辺の不信感を感じ取られたのかもしれません。



追記にも書きましたが、自分でも座りの悪い文章になっているのは

感じていました。


例えは正しくないかもしれませんが、

「あんまり調子に乗るなよ!」と怒られた感じです。


反省しております。




ただ、死刑制度(の是非)に関する「違和感」というのは

現在でも変わっておりません。

きちんと(その時点で可能な限り)考え抜いた「独り言」を

いずれエントリーできれば、と思っています。