戦後70年の節目ということで、

昨夜もNHKで 『ヒバクシャからの手紙』 という番組をやったり、

今日も日本テレビ系列で 『いしぶみ~忘れない。あなたたちのことを~』 という、

原爆で全滅した広島二中の1年生の遺族によって残された記録の番組がありますが、

原爆の日が近付いてきた本日は、

母がこれまで公にしたことのない被爆体験について記事にしたいと思います。



今年の6月頃、

「これまで話をしたことのない被爆体験を、映像記録として残しませんか」

というような、広島市による募集があり、

母の話も記録などして残した方がいいのではないかと思ったのですが、

なかなか言い出せないまま、募集の期限が過ぎました。

そのことを先日実家に行った時に話すと、母は、

「あんたが聞いて残しといて」 と言い、

何十年ぶりかで被爆をした日の話をし始めました。



私が小・中学生の頃は、毎年、平和学習があって、

その折に母の被爆の話は聞いたことがありましたが、

授業で必要ということであっても、あまり思い出したくない話だと言っていたので、

当然、母の方から話したがることはありませんでしたし、私の方からも聞きにくいことでした。

ましてや、家族の者以外に話すことなどなかったと思います。



母は当時7歳で、爆心地から 1kmあまりの中広町に、両親と弟と4人で住んでいました。

朝8時の時点で空襲警報が出ていると、小学校(三篠小学校)は休みになったそうで、

昭和20年(1945年)8月6日の朝、空襲警報が出ていたことで、

すぐに母は道路向かいにあった友達の家へ遊びに行きました。

弟は、家の前の道路で近所のおじさんが自転車をひっくり返して修理をしている様子を、

面白がって眺めていたそうです。

友達の家の玄関を入ったところで、急に、窓が真っ白く光ったそうです。

その時が原爆投下の8時15分だったのでしょう。

そして、母の記憶はそこで途切れます。

どのくらいの時間が経ったか分かりませんでしたが、

気が付くと母はうつ伏せの状態で、体は家の壁の下敷きになっていました。

母は、直ぐに何が起こったかがよく分かりませんでしたが、

恐ろしくなってきて、「神様、仏様、どうか助けて!」と、叫んでいたそうです。

しばらくすると、近所の自警団の人たちが、母の体にのし掛っていた家の瓦礫をどけてくれて、

母は運良く助け出してもらえました。

その時に、「ありがとう」 とお礼が言えてなかったような気がすると、

ずっと気になっていたそうです。

家の前の道路は、向こうの方にあった家の屋根や柱が爆風で飛ばされてきて、

幾重にも重なって散乱していたので、爆弾でやられたんだということが分かり、

向かいの自分の家の前で立っていた弟を見つけると、弟の手を引いて、

ほかの人が歩いている方向へと、瓦礫の上を歩き始めたそうです。

少し行くと、近所に住む地主の家の娘さんが、その時はもう頭が少し異常な状態に

なっていたのか、とてもそんな状況ではないのに、「遊ぼう・・・」と言ってきたので、

母は、「今は遊べんよ」と答え、普段はこちらから遊びに誘っても相手にしてくれなかったのに

なんでこんな時に・・・、と思ったそうです。

その先の方で、(母の)母親が、戸板の上に寝かされているのを見つけました。

その時は気付かなかったそうですが、母親は、爆風で飛ばされた柱が貫通したのか、

左肩の下辺りに大きな穴が開いていたということを、後で聞いたと言っていました。

近所で天理教をやっていた家の人がやってくるのを見つけて、

虫の息だった母親が、(子供を) お願いします」と頼んでくれたので、

私の母は弟の手を引きながら、その人について、みんなが向かっている川の方へ歩きました。

途中、近くの人たちが共同で使っていた畑の中を通った時に、

原爆の熱線のせいだと思いますが、大きく実ったカボチャが、まん丸のままなのに、

触るとグジュグジュッと崩れてしまいそうな異様なモノになっているのを見たことが、

頭に焼き付いているそうです。

川のほとりの、小屋とも呼べないような、柱とトタン屋根だけのところに入っていると、突然、

大雨が降ってきて、喉が渇いていた人たちは、屋根から落ちてくる雨水を飲んでいたそうです。

それは、後に言われる黒い雨だったと思います。

暫くすると、当時、(爆心地から離れた場所にあった)東洋工業で働いていた父親が探しに来て、

母と弟を見つけてくれて、3人で、母親の弟が住んでいた祇園に歩いて避難しました。

歩いている途中で母はもどしたそうですが、家に押しつぶされたときに飲み込んでいたのか、

家の壁が出てきたそうです。

弟は母が背負って歩き、6日の当日はまだ生きていたのですが、翌日の昼頃、

祇園の家で亡くなったそうです。

母の記憶では、弟の皮膚が火傷の状態だったのかどうかが判らなかったそうですが、

後で判った話では、弟の着ていた衣服は、脇の下のわずかな部分しか焼け残っていなかった

というので、全身に火傷を負っていたと思われ、亡くなる前には体にウジがわいていたそうです。

一晩だけ祇園の家でお世話になった後、さらに北部の方にある父親の田舎へ行き、

母は戦後、高校卒業までそこで暮らしました。

私が、(母の)母親は、戸板に寝かされていて、その後はどうなったのかを尋ねると、

遺体は戻ってきたわけではなく、他の多くの亡くなった方と一緒に、広島市内のどこかで

焼かれたのだと思うということでした。

母は、原爆が落ちた日の朝に、「遊ぼう」と言ってきた近所の地主の娘さんが、

どうなったのかが気になっていたので、後片付けなどで広島市内に通っていた、

父親と兄(田舎に疎開中だった長男)に聞いてみたところ、

家の傍にあった防空壕の中で亡くなっていたそうです。

その地主の娘さんも、着ていた服が焼かれたのでしょうか、

母が見た記憶では、裸の状態だったそうなので、全身火傷で亡くなったのかもしれません。

小さかった母は、原爆の惨状の記憶は少なくて、原爆投下後に何日も広島市内に通っていた、

母の父親や兄の方が、多くの光景を見ていたと思いますが、二人とも、もう亡くなっていて、

生前に話を聞ける機会があればよかったのにと悔やまれます。




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