1年というのは本当に瞬く間に過ぎていくとつくづく感じる。

そのうえで、年始に届く年賀状について考えてみる。

歴史や予備知識はウィキ先生に聞くとして、

今や減少傾向にある「年賀状」みなさんはどう済ませているだろうか?

「あけおめ」「ことよろ」のようなメールの短文だけで済ます人から、
昔から何百枚と一人で書いてる人まで様々・・・つまり「多様化」してきたのである。

私個人としては、年賀状は良い風習で、お世話になった皆様に
改めて「新年のご挨拶をする」良い機会だと思う。

たとえそれが手書きでなくても、全面プリントでも

私に対しハガキ「52円」と、それを買う、作る、投函する「時間」と「気遣い」がそこには込められていると感じる

世の中「運」と「縁」と「恩」は大切にしなさいと、よく言われたものです。


面倒臭い?ダルい?やばい?

最近の日本の乱れが、文化の乱れとならないまでも


そんな些細な事に気をつけるだけで、周りと大きな差別化をはかれると思う。


周りがやらないから”私もやらない”

集団に流される日本人の悪い癖でもある、そもそも日本教育は優秀なサラリーマンを作るものだから仕方ないといえば仕方ないのだが・・・


でも、自分が正しい、「これ」と決めた道を決して曲げないで欲しい


私は日本郵政の回し者でも何でもない一介の市民だが

日本という素晴らしい国に生を享けたのなら、この伝統や文化を守り

社会へ世界へ発信する大きな心を持って欲しいと切に考える。



今年も最高に良い年にしていこうと改めて考えなおした2日の夜だった。
この言葉の由来は諸説あるそうですが、戦国時代最高の智将である『毛利元就』の言葉という説を紹介します。

「一年の計は春にあり、一月の計は朔(ついたち)にあり、一日の計は鶏鳴(一番鶏が鳴く早朝)にあり。」

毛利元就の言葉ですが、何事も最初が肝心であるということを意図したといいます。

これについて、こんな逸話があります。
元日の朝、家臣が祝いの膳を食べるように促したところ、毛利元就は黙って席を立って去ってしまったそうです。
しばらくしてその後、家臣を呼び出して「なぜ元旦を祝うか?」とたずねたそうです。
答えることができない家臣に向かって

「世の愚か者どもは、恵方を拝んで、とそを飲み、長寿・子孫繁栄を祝って浮かれているが、元旦はそんな暢気(のんき)なものではなく、年の初めに一年の事をじっくり考える。それが本当の祝いというものである。」

と答えたといいます。

心して詣りに出かけたいと思います!
時間は有限か無限か・・・どう思いますか?



人には1日24時間という平等な時間が与えられている。

小さい子からお年寄りまで、全ての人に時間は平等のように思える・・・はたしてそうなのか??



小さいころの1日というのは非常に長かった、


朝起きて、毎日違うご飯、好きな卵料理もあれば嫌いな梅をだされることもある・・・

慣れない箸を不器用に使いながらテーブルを汚しては怒られ、

ランドセルを背負いバスに揺られながら友達と登校する。

毎日知らないことの授業、休み時間のサッカー、帰ってからは親の目を盗み遊びに駆けていく・・・5時を過ぎて帰ればまた怒られ、今日の出来事を夕飯で話し合い、いつの間にか眠る。


怒られるとわかっていても楽しいこと・興味が有ることに常に真っ直ぐ・・・



今の時間はどうだろうか?


朝起き、いつもの朝食、いつもの通勤路、いつもの仕事・・・失敗すれば怒られ、うまく行っても褒められもしない。酒で気分を紛らわし、悪いことを考えないように寝る。明日に響かないように決して無理はしない。


怒られることは極力しない。無難に無難に・・・



いつからそうなったのだろう?


10代の後半から?働き出してから?働き慣れたら?



その1つは、「自分自身」の好奇心が欠落していったからではないかと思う。


怖いことには目を向けず、知らないことは知らないままでいい。でも知ったかぶって自分や相手に嘘をつき決して「恥」をかかないように行動する



それで良いのか?1度きりの人生、それでよいのか?と、ふと考える


もっと素直に、もっと真っ直ぐ


時間は宇宙のビッグバンからずっと無限に増え続けてる。でも人が生きるのは80年。決して無限ではない、・・・有限。むしろ一番稀少で尊いモノなのかもしれない



自分は何ができ何ができないのか。もっと考えなければ


と、たまにはまじめになってみたりして