UNDER THIS BLUE SKY
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5歳男児のイキザマ。

ワタル、5歳。
来年小学校。

虫が好き。魚が好き。とにかく好き。
触ってみたい。とりあえず捕まえたい。
虫に噛まれても、よっぽどでない限り「イタイ!」と言わない。
「だから触るんじゃない」とママに怒られるから。
そこは、めちゃめちゃガマン強い。

散歩は前には進まない。
虫を見つけちゃー止まる。
虫を見つけちゃー捕まえる。

死んじゃったトンボは、そおっと隣に置いてブランコに一緒に乗る。

せっかく捕まえたカマキリの赤ちゃんを、飼い犬に見せようとする。
でも籠から出したら、パクリと食べられた。
ぼーぜん。。

でも頼むから、ジュースの空き箱に虫を入れておくのはやめてくれ。
頼むから、テーブルの上の箱にセミを大量に入れるのはやめてくれ。
突然「ジジジッ!!」と大音量で飛び出すからさぁ。
こわいったら。

ワタル5歳。
将来の夢は千石先生(どうぶつ奇想天外!の動物博士だよ)になること。

できればもう少し洗練された先生になってくれまいか。。
さかなクンもちょっと厳しい。。

届ける前に。

目は自然に閉じることができる。
見たくないものに対して、瞼は自然と落ちるだろう。

でも耳は自然にはふさげない。

それが、心地よい言葉であろうとなかろうと。
それが、心地よい音であろうとなかろうと。

選別されることなく届いてしまう。


あなたが今、まさに吐こうとしているその言葉が
相手の耳に心地よいものであるかどうか。

一呼吸おいて反芻するために
口は噤むことができるのかもしれない。

いつか どこかで なにかのために

You never know when someone may catch a dream from you.

You never know when a little word or something you may do

may open up the windows of a mind that seeks the light...

The way you live may not matter at all,

but you never know, it might.


~Quoted from somebody's words~

そして川は流れていく。

川は流れていく。

人間の手など届きようもない果てしない高みから、
深く深く沈んだ地の底へ。

川は流れ続けるからこそ、己の澱みや汚れを浄化し、
澄んだ輝きを手に入れる。

都会の雑踏の中、歩みを止めてみたくなることがある。
イチ抜けた-
そう言って、うずくまってみたくなることがある。

でもやっぱり川は流れている。

もう一歩、あと一歩。

いつか振り返った道程が、澄みきって輝いたものであればいい。


でも漢字の「川」って一番左の線だけが、ちょっと横向いてるんだな。
こんなちょっとした異端児が理想的。

怒りのエネルギー。

「あなたには怒りの感情が欠けている。」

信頼する上司に、そう指摘されたことがあった。

云わんとすることはよくわかった。

良く言えば、争いごとがキライ。
単純に言えば、もめごとがイヤだ。
悪く言えば、面倒くさいことは避けたい。

自分には湧き上がるほどの強い怒りのエネルギーというものがない。

正確に言えば、無いわけではないのかもしれない。
ただ怒りの感情が沸いたとしても、それが表出する前に呑んでしまう。

相手が近しい人であればあるほど、「相手に怒りをぶつける」「噴出させる」ということができない。
それが自身の他者とのバランスの取り方だと思っていた。

呑んで呑んで呑み続けていた。
そうしたらある日、己の身体が悲鳴をあげた。

「人から受けた痛みや人に傷つけられた事を、
自分の中に単なる「喪失」として留めておいてはいけない。
相手への激しい怒りに転じさせていくことこそ、
自分を確立し、自分を守っていくことなんだよ。」

「喪失」を埋めることができるだけのエネルギー。
自分を守っていくためのエネルギー。

怒りのエネルギーが沸いてきた時、自らを愛しく思えるのかもしれない。

哀しい夢。

哀しい夢を見る。
毎晩毎晩、幾度も幾度も繰り返し。

正確に言えば夢が哀しいのではなく、温かい。
温かかった頃の夢。
穏やかさに包まれていた頃の夢。

手放してしまった温もりを、いつになったらあきらめきれるだろうか。
交わらなかった運命を、いつになったら悔しがることがなくなるだろうか。
心からの幸せを、いつになったら願えるだろうか。

温かい夢から覚める朝、空っぽの手のひらを握り締めて、
あぁやっぱり哀しい夢だったんだと。

深い息をついて立ち上がることがなくなるのは、
いつのことだろうか。

“HERE and NOW”のつづき。

私が心の底から姉を尊敬していることがある。

子供たち、私にとっては姪っ子&甥っ子たちへ、
夜寝る前に本を読んであげることを、最初の子が産まれて以来
もう10年間、毎晩欠かさず続けていること。

これは本当に並大抵のことではない。

ママは疲れる。体力も気力も。
ママは眠い。
ママには明日が気になる。
「疲れてるんだから、明日にしてよ」と言いたい。

でもコドモたちの「今夜」は「今夜」しかない。
今夜読んでもらったお話は、今夜の記憶として残るに違いない。
そんな「今夜」が一つずつ積み重なって、温かなココロを創っていくに違いない。

読み聞かせによって字を覚えるとか、国語に強くなるとか、
そんなことが目的ではない。
お話に耳を傾け、登場人物の気持ちを想像し、ドキドキして、嬉しくなって、悲しくなりながら、柔らかな豊かな心が養われていくのだと思う。

マニュアル本ばかりが氾濫する昨今、想像力に欠ける子供が多くなっていると感じる。
小説や物語の良さはそこにある。

一度、姉を褒めたことがあった。
「毎晩続けてるのって、ほんとうに偉いねぇ」と。
そうしたら、そんなことで褒められたのは初めてだと言う。
そうか。
こんなすごいことしてるのに、ママは褒められないのか。

HERE and NOWを丁寧に受けとめ続けることは容易じゃない。
でもきっと代えがたい何かが返ってくるよ。

がんばるママに心からのエールを。

“HERE and NOW”のココロ

その昔、幼児の英語教育に携わっていた頃、教えられた言葉。

-HERE and NOW-

コドモたちが生きている世界観。
直訳すれば「今この場所で、この瞬間を」ぐらいだろうか。

幼稚園に入るぐらいまでのコドモには、時間の観念が無い。
「明日」とか「昨日」とか「来週」という感覚がわからない。
「ちょっと待っててね」ぐらいはわかるけど、
「明日になったらね」なんてわからない。

彼らにとっては、“HERE”そして“NOW”こそが今あるすべてなのだと。

大人みたいに「あ~ちょっと今日は疲れちゃったからやり過ごしておいて、明日にパワーを温存。」とか、
「これ終わったら一休みできるから、やっとくかぁ」などという計算が
できないし、しない。

だからこそ、常にその瞬間に全力投球。
笑って泣いて走り回る。

6人や8人もの彼らを相手にする私も、その時間は全力投球でなければ
とても太刀打ちできなかった。
見送った後、しばらくして襲ってくる脱力感は相当なのに、
爽快だった。

大人の計算は、知恵なのか惰性なのか。
だって明日なんて来るかどうかもわからないのに。

昨日も今日も明日もおかまいなしで、「今」を生きるコドモ。
彼らのように時間の観念をもたないことは、もはや難しい。

でも言い訳をつけて先送りばかりしている自分には、
耳のイタイ、忘れちゃいけない言葉であると今でも思う。

HERE and NOW.

そして空はつながっている。

空が好きだ。
太陽が好きだ。

夜の漆黒と静寂が怖かった時があった。
朝を迎え、空を見上げ安堵した日々があった。
太陽の陽を浴びて、あぁ今日も朝が来たと感じることを糧にしていた日々があった。

見上げたときにたった一つしかない太陽がそこにあり、
世界をつなぐ空があること。
惑いの中で、そこにだけ揺るがない強さ。

ハワイにいたころ、いつも空ばかり見ていたな。

アメリカにいる兄貴にだって、同じ空が見えているはず。

今はもう会うことのない、かつて時を共に過ごした人々。
どうしているだろうか、と想いを馳せる時、
同じ空の下にいることを感じながら、祈りを放つ。

そして人はつながっていく。

人は思いもかけないところでつながっていくものだ。と感じることがある。

何の因果もないと思っていた高校に入学した時。
数日後、下駄箱の前で突然話しかけられた。
見れば小学校3年生で転校して以来、何の連絡も取っていなかった元同級生。
ポケットから当時の遠足写真を取り出しつつ、「入学式で呼ばれた名前を聞いて気づいた」と言う。
あの時から早15年以上が経った。
互いに毒舌を吐きながら、最も心気安い友としてつながっている今日まで。

大学の友人に誘われて行った飲み会。
その席にいた友人の小学校海外時代の同級生。
次の日、今度は自身の高校の同級生から突然メールがきた。
「昨日、○○と会ったんだって?」
その同級生も同じ海外同級生組。

仕事の取引先会社に就職した同級生の名前をチラっと口にした。
しばらくしてその会社に出張したところ、設けられた食事の席に同級生の姿。8年ぶり。
話がまわりまわって、呼び出されたとのこと。

前の職場の理事一覧に、高校時代の校長先生の名前。
ある日受付に懐かしいその姿。
穏やかな人柄が大好きだった先生。
思いもかけない繋がりに、なんだか温かくなる。

人はつながっていく。
偶然が偶然を呼び、必然が必然を呼び。
それをなんでもない偶然ととるか、何かの意味づけを求めるか。
それはどっちでもいい。

ただそれを実感するたびに甦る懐かしさや温かさ。
忘れがちだったこれまでの道程を思い返す貴重なきっかけを与えられたにちがいない。
歩いてきたからこそ、今ある日々。
その道程はどれとして消えることはなく、あの時あの場に存在していたことを、折に触れ噛みしめる。