信じるって、どういうことだろう。。
信仰って、どういうことだろう。。
以前、何度もこう考えたことがある。
いや、
現在も、考えることがあると思う。
理屈・理論は、わかっているつもりなのだが。。
あるとき、
なんだか、妙に、
なぜか、妙に、気になり、惹き付けられた聖典の話がある
そして、今でも、その話を聞くと、
なぜか、うっすらと鳥肌が立つかのような気持ちになる。。
それは、
『青銅の蛇』 の話。
やばい、
今、『青銅の蛇』と書いただけでも、
特別な気持ちを感じてしまう。
『青銅の蛇』については、
旧約聖書の民数記21章4-9節に書いてある。
モーセとイスラエルの民とのやりとり。毒蛇。
そして、主とモーセのやりとり。主の約束。
・アルマ書33章19-21節 には、こう書いてある。
「見よ、モーセも神の御子について述べた。
荒れ野で一つの予型が掲げられ、
それを仰ぎ見ようとした者はだれでも、
生き延びられるようにされた。
そして、多くの人がそれを見て生き延びた。
しかし、そのことの意味を理解した人はわずかであった。
彼らの心がかたくなであったからである。
そして、予型を見ようともしないほどかたくなな人が大勢おり、
彼らは死んでしまった。
彼らが見ようとしなかったのは、
それで自分が癒されるとは信じなかったからである。
おお、わたしの同胞よ、
もしあなたがたが癒しを得るために、
目を向けるだけでよいとしたら、
あなたがたはすぐにも見ようとはしないだろうか。
それとも、不信仰のままで心をかたくなにし、
怠けて目を向けようとしないで
死ぬことを望むだろうか。」
『青銅の蛇』の蛇は、イエス様のこと。
毒蛇は、疑う、かたくなな心、不信仰、不従順にも
たとえることが出来ると思う。
『青銅の蛇』を見あげるだけで救われると、
毎週教会に通っていても、
真底信じてない時がある。
頭では信じているのだが、行動が伴っていない。
『青銅の蛇』
簡単な短い話だが、その奥義は深い。
時々、思い出そう