・1989年4月1日(土)午前の部会

 大管長 エズラ・タフト・ベンソン



『高ぶりを心せよ』 ③




高慢は本質的に闘争的な性質を持っています。


私たちは、自分の思いを押し通して、

神のみこころに刃向かうことがあります。


それは、

「みこころではなく自分の思いが成るように」

と言っているのと同じことです。




パウロはそのような人についてこう言いました。


「自分のことを求めるだけで、

キリスト・イエスのことは求めていない。」(ピリピ2:21)





神のみこころに対する敵意は、

欲望や欲求、激情の歯止めを失わせてしまいます。

(アルマ38:12、Ⅲニーファイ12:30参照)



高慢な人は、自分の生活を律する神の権能を

認めることができません。


自分なりに真理を解釈して、

神の偉大な真理に挑むのです。


また、自分の能力をもって神権の力に対抗したり、

自分の功績を挙げて偉大な神のみ業に

敵対したりするのです。





神への敵意は、反抗、かなくなな心、

強情さとなって現れることもあれば、

罪を悔い改めない、誇り高ぶる、すぐに怒る、

しるしを求めるといった形で現れる場合もあり、

実に様々です。


高慢な人は、神に対して、

自分の考えに同意するよう求めます。


神のみこころに合わせて、

自分の考えを変えるなどということは

念頭にありません。




どこにでも見受けられるこの高慢という罪悪には、

もうひとつ重大な要素があります。


それは同胞に対する敵対心です。


私たちは、人よりも上に立ち、

ほかの人をおとしめようとする誘惑に

毎日直面しています。

(ヒラマン6:17、教義と聖約58:41参照)




高慢な人は、自分の知性、意見、仕事、

財産、才能など、この世的な尺度をもって張り合い、

すべての人を敵にまわします。



C・S・ルイスはこう欠いています。


「高慢な者は何かを所有しただけでは喜ばない。

人より多く持って初めて喜ぶのである。


・・・・・・人を高慢にするのは、比較である。


すなわち、自分は他よりも優れているという

優越感である。


競争心という要素がなくなれば、

高慢もその姿を消すのである。」


(「キリスト教精神」pp109-10)




(続く)